月別アーカイブ: 2019年6月

これからの活動について

こんにちは。

3泊4日で帰郷(鹿児島)していました。

 

開聞岳、佐多岬(屋久島を望む)、曾木の滝…

珍しくバルーン以外の画像です。

実は、

ふうせんまつりでやりたかったことはすべて果たしました

6年前(2013年)、一度廃業・引退に追い込まれたことがありました。

その時の記事はこちら

この時は正直、自分の限界を悟った、という感じで、

「もう風船はいい、たくさんだ」

という感じでの引退でした。この時は母親の病状も深刻で、父親から聞いた話では…「もう風船を辞める以外に母親の病気は治らない」というような状況でした。

ところが、私が風船を辞めても、母親の病気は治りませんでした。さらに、叔母の「緩慢な自殺」…

違うところに原因がある、と私は判断しました。

最終的に第二次世界大戦と戦後の混乱が大きな要因である一方、社会がどんどん変化し、昭和の時代に正しいとされた厳しい躾の徹底という子育てのやり方では子どもの自己肯定感は養われないとされました。これから国際化が進展する時代、自己肯定感と達成感を培うことが子供の成長にとって極めて重要といわれています、

昭和の時代はそれこそ、厳しい躾を徹底させ、「ちゃんと」育て上げることが親の務めとされてきました。学校教育も集団主義が中心であり、「良き社会人」「良き企業戦士」を育てる教育システムが確立されていました。

私の両親はそれを「是」ととらえ、私に対して厳しい躾を施しました。

ところが、これが間違いのもとだったのです。というか、母親は特に、間違いに気づきながら、周囲の目を気にしてしまったのです。とりわけ母親の両親を意識しているような感じでした。

間違った、というか時代に合わなくなっていた論拠をもとに私は「風船はもういい」と考えていた節があります。

しかし、私は「たとえ親が誤っていても、子は泣いてそれに従わねばらならない」という考えに至っていました。その考えを徹底させるために、「論語」を読み、朱子学について学んだりもしました(両親が儒教的思想に基づいた思想が非常に強かったのも影響している)。挙句の果てには「世間の非常識、我が家の常識」とまで思うようになりました。現実問題、約半年近く、一つも風船を膨らませなかった時期がありました。

そこから立ち直り、再び風船に接する日々が続きました。

一方で、風船の在り方は多様化し、バルーンに対する接し方も多様化してきました。

そんな中、私は「福祉の分野でバルーンの経験が生きる」と判断、そちらを強化していこう、と考えるようになりました。2013年前半に起きた「ヘリウムガス払底」の結果、バルーンの市場とあり方が変化していきました。「インスタグラム」の浸透でバルーンの需要が伸びる一方、供給も増え、バルーン市場全体が大きく変化しました。その中で私は、「認知症予防にバルーンが効果的」と感じるようになり、「レクリエーション介護士」の資格も取得しました。

他方、ブライダルの市場は少子化に加えて「なし婚」の増加で、年々縮小傾向にあり、とりわけここ数年はその傾向に拍車がかかっているように思えます。当然バルーンの需要も低下し、最盛期だった2000年から2010年ごろの半分以下にまで落ち込んでいます。

このような経緯や現状に基づき、さらに「ふうせんまつり」によって自らが目指していた方向性が確かなものになったことを踏まえ、今後のバルーンの活動を大きく転換することにしました。

強化すること

1:子どもたちや若者の自己肯定感や達成感の醸成の手段としてバルーンを活用する

かねてから主張している「くす玉のひもを引っ張るときの勇気と引っ張った時の達成感」をより多くの人に広げていくための活動を、これまで以上に強化します。自ら思い切って一歩を踏み出し、何かを生み出すことによって、周囲の人に笑顔と幸福感をもたらし、自らは達成感と自己肯定感を味わうことができる、ということをより幅広く伝えていきます。

具体的には子ども向けワークショップの充実、ネットラジオパーソナリティーなどの活動を通して子どもたちや若者に「くす玉のひもを引っ張るときの勇気と引っ張った時の達成感」を体感していただきます。できない、と思うのではなく、チャレンジしてできた、時に花開くくす玉のような気持ちを大切にすることによって、これからの時代を生きる子どもたちや若者に求められている「自己肯定感」「達成感」を培っていく活動を進めていきます。そのために自らの経験、とりわけバルーンアーティストとしてやってきた20年以上の経験を伝えていきます。

2:高齢者の生きる活力の醸成の手段としてバルーンを活用する

風船を使って作品作りをすることによって、高齢者が手先を動かすことが脳を活性化させ、認知症の予防につながるということが最近明らかになりつつあります。また、風船の楽しさ、美しさ、華やかさに触れること自体、同様に脳の活性化と生きる活力につながり、認知症予防につながるといわれています。実際、私は高齢者向けのバルーン教室を何度か行いましたが、風船で作品を創ったり、形にしていくこと、さらには風船に触れること自体で高齢者の皆さんが笑顔になり、生きる活力につながっていることを実感しました。

今後は、より一層高齢者向けのバルーン教室などの活動を充実させることにしています。その一環として、「介護の確実な知識が必要」と判断し、本年夏以降「介護初任者研修」を受講します(介護ヘルパー2級相当の資格は秋をめどに取得予定)。

3:障がいのある人たちや引きこもりの人たちへ生きる希望を与える

 

私は「自閉症」の一種である、いわゆる「アスペルガー症候群」という障害を抱えています。これは一種の発達障がいですが、この種の障がいに対しては、社会の側が障害を生み出している傾向が非常に強いです。その結果、「毒親」「ひきこもり」問題につながっていると考えます。下関駅、秋葉原、荒川沖駅といった事件から相変わらず多い「親殺し」「子殺し」「家族間殺人」まで、背景にあるのは「厳しすぎる躾」「誤った躾」であり、それを求めてきた近世以降の社会の在り方に問題があると考えます。自分自身もその影響を強く受けており、「風船がなければ引きこもりに陥っていた」と考えています。

私を救ってくれた風船に感謝するとともに、この経験をやはり次の世代を担う若者たちに伝える必要があると考えています。

以上の三点を重点に、今後の活動を行います。

一方、以下の活動は大なり小なり縮小する方針です。

イベントやブライダルの演出及び装飾

市場が縮小傾向にあります。また、「ふうせんまつり」によって私なりの完成形と限界が見えました。経験値は豊富ですので、今後は技術維持も含め、依頼があった場合は全力を注いで行う、という形をとりたい、と思います。これらは一瞬一瞬が勝負です。成功すると大きな感動と達成感を生み出す半面、失敗すると奈落の底に突き落とされます(これをいわゆる「演出事故」「返還欠場」と私は読んでいる)。さらに言えば、いただいた仕事に全力を注ぐ姿を通して、生きる希望を与えることができる、という側面もあります。よって、注文はこれまで同様お受けできます。

夜の店舗の装飾

これも依頼があった場合に限定します。積極的な売り込みは行いません。かつては手広く手掛けていましたが、体調不良の原因となり、長期休業に至ってしまいました。よって、過去の作品を見ていただいて、ぜひお願いしたい、と考えた時に注文をお受けしますので、ご注文は引き続きお受けできます。

コンテストで技術を磨き、技を競う

もうこれこそ、やるつもりはありません。これに関しては「縮小」ではなく「撤退」「引退」宣言といたします。若い方や経験値の低い方がどんどんチャレンジしていただきたい分野です。特定の人の支援もしません。ただ私ができるのは、若い方や経験値の低い方にアドバイスすることのみです。

以上が今後の活動の指針です。

引き続きよろしくお願いします。

 

夢をかなえたからこそ伝えられること

 

こんにちは。

とにかく見てください。

私が渾身の力で創り出した究極の感動の瞬間を。

 

ふうせんまつり~ゆめの国の宝さがし~からはや2週間。

自分の限界に挑み、成し遂げられた仕事。

そして…

自分自身でくす玉のひもを引っ張りながら「おめでとう」といえるようになる…

夢をかなえる、ということはそういうのことなのかもしれません。

くす玉がはじける瞬間に咲き誇る無数の笑顔の華…

夢がかなう瞬間…自分のみならず、自分の周囲にいる人たちも幸せにすることができる…

自分はそういう存在になることができました。
そして、これからもそういう存在であり続けたいのです。

いくつものくす玉を華開かせ、ついにはとてつもなく大きな大輪のくす玉を華開かせることができた…たくさんの「おめでとう」に包まれて…

そのためにはどれだけの汗と涙を流してもかまわない、という心構えが必要です。そこにあるには
「このくす玉を絶対に華開かせる」
という強い意志です。
そして、その時の自分の姿をイメージすることが必要です。

流した汗と涙の分だけ、幸せは必ずやってくる
そして、華開いたくす玉は、自分にとって「これから生きていくための自信」という、大きなプレゼントを自分に残してくれます。

夢をかなえるということは、そういうことなのです。

夢をかなえようとする姿によって、多くの人を幸せにすることができるのです。

夢をかなえたからこそ、できることがある…

これから私は、一人でも多くの人のくす玉を華開かせる手助けをしていきたいと思っています。

キセキのキセキ…「ふうせんまつり」を振り返る 第3章 暗礁そして再スタート

第2章より続く

実行委員会では、厳しい意見が続出しました。

「このようなコンセプトでは集客が厳しい」「2日間もやるのはどうか」…

とりあえずの顔合わせということもあって、「これから練り上げていこう」ということにはなったのですが、煮詰まり状態となり、私は自分一人ではしんどくなってしまっていました。しかし、この言葉が実行委員のグループチャットに書いてありました。

「実行委員となった方々は私を含め、バルーンの持つ魅力や梶川さんのお人柄や作品の魅力に十分に気付いている集団です」

このような発言が出て、ほかの実行委員の皆さんからもそれを支持していただいている…今までやってきたことを認めていただいて、それを踏まえて最高のものをつくりあげようとしているチームができつつあるということを私は強く自覚しました。そして、強くこう思いました。

彼女たちのためにも、この「ふうせんまつり」を企画倒れ、失敗に終わらせるわけにはいかない。何としても成功させなければならない

私はこの発言や、グループチャット内で繰り広げられたやり取りを見て、

この方々たちを信頼して、このチームにすべてを任せてみよう

という考えに至りました。

それまで私は、人に任せる、ということをあまりしない人でした。自分が行うことは自分が仕切る、という考えでした。その結果、考えが合わない人は私のもとからどんどん去っていきました。かつてのY’s Dreamが行き詰まってしまったのも、この私自身の考えが影響していたのかもしれません。

今振り返ってみると、この判断が成功の最大の要因のような気がします。そして、私はこう考えました。

私ができることは「ふうせんまつり」が失敗に終わる要素を作らないようにすることしかない

風船以外に私ができることはそれしかない

「ふうせんまつり」を成功させるために私ができることは何かを最優先に考えるようになりました。

そんな中、大ピンチが…

私が「ふうせんまつり」を企画したことが、当時勤務していた会社で問題視されたのです。

さらに悪いことに、この時期、会社は経営計画の見直しを進めているところでした。会社は私をリストラすることを決断、「ふうせんまつり」は中止も視野に入れた大幅な見直しを余儀なくされることになりました。

私は中止も考えました。しかし、

「実行委員となった方々は私を含め、バルーンの持つ魅力や梶川さんのお人柄や作品の魅力に十分に気付いている集団です」

という考えに賛同した人たちが、実行委員として残っていました。私は

延期(4月27・28日開催を6月2日に)・企画内容大幅見直し・日程の圧縮(2日間を1日に)

という条件を受け入れ、当初考えていた全額自費開催も見直しを受け入れました。そうして2月17日、「ふうせんまつり」は「~ゆめの国の宝さがし~」というサブタイトルが付いて、再スタートを切ることになりました。

今にして思えば、この決断が成功につながった、と考えています。確かにこの段階では、苦渋の決断でした。しかし、この決断以外にあった選択肢は、「開催中止」しかありませんでした。仮に開催中止、となっていれば、私は元も子も失うことになり、実行委員をはじめ、「ふうせんまつり」に期待していたすべての人たちの想いを裏切ることになります。そして私は何も残すことができず、すべてを失い、引きこもりの中年ニートになってしまっていたでしょうし、自暴自棄になっていたかもしれません。

5月下旬に首都圏では長年引きこもっていた(中学卒業から50代に至るまで35年余りも!)男が大量殺人を犯したうえで自らも自害したり、中年ニートになってしまった息子を事務次官という社会的地位の高い職業まで勤め上げた元官僚が刺殺してしまったりという事件が起きました。私は「風船がなければ、風船に携わることがなければ、自ら命を絶っていたか、塀の中に半永久的に入っているかのいずれかになっていた」と事あるごとに述べています。これらの中年ニート、引きこもりの人たちは60万人程度いるとされています。それこそ鹿児島市や船橋市の人口に匹敵する数です。彼ら、彼女らを生み出したのはその親に原因があるケースが多く、たいてい背後に厳しすぎる躾が絡んでおり、その親もまた厳しい躾を受けた、加えて厳しい躾は昭和初期から第二次世界大戦をはさんで高度成長期に至るまでの社会の要請にかかわるところが大きいとまで言われています。いわゆる「毒親の世代間連鎖」であり、私の両親及び祖父母もそうでした。

これを断ち切って、自己肯定感を高め、達成感を味わせるのが今の子どもたちに必要と考え、「ふうせんまつり」にはそのような要素を多く盛り込むような企画を用意していました。「くす玉のひもを引っ張るときの気持ちよさ」を体感していただくイベントとして企画し、単なる作品展にしないつもりでいました。だからこそ、出店・出演を予定していた人たちの大半は大幅見直しを受け入れ、趣旨に賛同してくださったのかもしれません。

第4章に続く

キセキのキセキ…「ふうせんまつり」を振り返る 第2章 Balloons Make Everyone Happyプロジェクト

第1章「構想」より続く

私自身が当時所属していた会社の通常業務などで忙殺され、「ふうせんまつり」の準備になかなか着手できずにいた日々が淡々と続いていた…7月6日…

異常なまでの豪雨が広島県内の大部分を襲いました。廿日市市や北広島町などごく一部を除き、広島県は大部分の地域が広範囲にわたって被災する状況になってしまいました。西日本豪雨でした。

私のところに、「呉市の子どもたちは花火も見れない、どこにも行けない、市民の憩いの場は軒並み災害対策拠点と化している、という状態で、笑顔を失っている…」という話が伝わってきました。私は風船と飲料水をもって呉に向かい、現状を見聞し、ボランティア活動を行いました。そして立ち上げたのが

2019Balloons Make Everyone Happyプロジェクト

でした。

私は構想段階にあった「ふうせんまつり」をこのプロジェクトの集大成に位置付けることにしました。そうして、2018年は晩秋まで、このプロジェクトを進めていきました。プロジェクトの詳細は上記リンクをご覧いただければと思います。

  

   

    

    

順序は一部入れ替わっていますが、このプロジェクトで制作した作品たちです。

このプロジェクトが一段落した2018年12月、ようやく実行委員をお願いしたい人たちに声掛けを始めました。一人一人にあって意思を確認しました。大半の方が私の説明する趣旨に賛同し、年が明けた2019年1月14日、成人の日に「ふうせんまつり」プロジェクトは本格始動したのですが…

第3章「暗礁そして再スタート」に続く

キセキのキセキ…「ふうせんまつり」を振り返る 第1章 構想

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まず、この「ふうせんまつり」の当初の構想ついて、2018年の1月8日の記事「平成が終わるまでにかなえたい夢」から引用します。省略している部分はリンクをクリックしてご覧ください。そもそもなぜ私は「ふうせんまつり」を企画立案し、実行しようとしたのかはそこに書いてあります。

引用部分は青色、実際の「ふうせんまつり」は赤色で表記しています。

…そこで、私は考えました。

ふうせんまつりを平成が終わるまでにする→当初予定より約1か月延期となり、元号が「令和」に変わった2019年6月2日に実施された

場所…広島市内のレンタルスペースもしくはギャラリー→当初の希望通り、広島トヨペット株式会社様が運営するイベントスペース「CLiP HIROSHIMA」にて開催された

内容…以下のものを考えています。

1:エントランスのバルーン装飾→実際に制作した

2:風船のキャノピー+会場全体の装飾→キャノピーは「バルーンキャッスル」として、会場全体は「お花畑をモチーフにして」制作した

3:風船の壁画ステージ上に、親子で体験しながら作品を作る形で制作した(7と合体)

4:風船プール→バルーンキャッスル内に組み込む形で制作した

5:フォトバック(風船のスカートと帽子も用意、子どもさんは試着できる)→ファッションショーの一部に組み込まれる形で実現した

6:バルーンドレス展示(できれば試着も)→実現せず

7:夢を書き込んだ風船で壁画制作ステージ上に、親子で体験しながら作品を作る形で制作した(3と合体)

8:バルーン体験教室&「ふうせんへのおもい」講演会→実現せず

9:バルーングラフィック展示(もちろん展示スペースは床と天井にバルーンをふんだんに飾る)→会場内の大型ビジョンに数秒ごとに1枚ずつ映し出す形で展示した

10:会場全体を包み込むバルーンシャワー(スパークバルーンを多用、合計1000個程度降らせたい、もちろん紙吹雪入り)→合計約1500個、スパークバルーン5球、無数の紙吹雪入りとして、当初構想を上回る形で実現した

この10種類を一度に開催します。

期間…平成31年(2019年)3月下旬or4月下旬(3月30・31の両日もしくは4月27~30のうち連続する2日)直前2日間は制作現場をライブ公開します。→令和元年(2019年)6月2日実施、ライブ制作および制作体験は前日6月1日に実施した

出来れば、クラフト・ハンドメイド作品及びパン・クッキーなど手作り各種菓子類などの販売、さらに子ども向けミニコンサートも行いたいです。→出店者様22店舗、ステージ参加団体9団体・個人様が参加した

予算としては材料費だけでおおむね10万以内(原価ベース)を考えています。→ヘリウムガスを含む材料費が原価ベースで20万に達した

以上が私が考えている「ふうせんまつり」です。

このように、私の考えていた内容を超えて実現したのが、「ふうせんまつり~ゆめの国の宝さがし~」でした。

そして、こうも書いてありました。

…私は、「本当に風船で表現できるものは何だろうか…」と考えるようになりました。風船には、それ自身の持つやさしさ、美しさ、華やかさといったもののほかに、元気、希望、夢といったものがつまっています。そしてそれらが感動を生みだすのです…

…私は、風船が持つ美しさ、楽しさ、華やかさといったものにひかれ、そしてくす玉がはじけ、無数の風船と紙吹雪が舞う瞬間にあこがれ、バルーンの世界に入りました。そして創り上げた感動は数知れず、一度引退してもなお求められ、その結果再び風船に生命を吹き込み続けることができているのです。

その風船があったからこそ、今こうして私は生きていられるのです。

この「ふうせんまつり」は、その風船たちに感謝の気持ちを込めて、実現させたいと考えています。なぜなら、「風船のおかげで私は自分の人生を歩むことができたから」です。

これを記事として書き、アップしたのが2018年(平成30年)1月8日。

企画案を会場となるCLiP HIROSHIMAさんに出したのが2018年4月ごろ。

以後、私自身が当時所属していた会社の通常業務などで忙殺され、準備になかなか着手できませんでした。そんな日々の業務が淡々と続いていた…7月6日…

第2章へ続く

キセキのキセキ…「ふうせんまつり」を振り返る 序章

こんにちは。

2019年、令和元年、6月2日、日曜日。

広島市中区東千田町、広島大学跡地にあるコミュニティスペース、CLiP HIROSHIMA。

構想1年以上、準備半年以上、制作期間9日間、ついに「ふうせんまつり」が実施されました。

やり遂げました。

やりぬきました。

もう、関わったすべて人たちに、感謝しかありません。

ありがとう!

そして、その場にいたすべて人たちに

おめでとう!

この瞬間、私の頬を涙が流れました。

この直後、私は今回の運営の中核を担った3人の実行委員の方一人一人と抱き合い、喜びを分かち合いました。

会場全体を約1500個のカラフルな風船たちと無数の金銀の紙吹雪が包み込む…まさにその場にいたすべての人たちを祝福するかのように…

私が目指していた、私がつくりあげようとしていた、最高の瞬間が繰り広げられました。

そして、その場にいたすべての人たちに、いつまでも忘れることのない感動を刻むことができました…

まさに、私と、その場にいたすべての人たちの想いがはじけ、大輪の笑顔の華が花開いたのです!

…それから数日間、私は感動をかみしめながら、後片付けなどをして過ごす日々が続いています。いまだに余韻が残っています。ネット上に飛び交う絶賛の言葉、感動と感謝の言葉…

感動をありがとう

最高!!!

それだけ私が成し遂げたことは、すごいことだったのです。

作品たち、会場の様子などといった画像は、とにかくデータが山のようにあり、どこから手を付けていいのかわかりません。整理や編集などに2~3週間はかかりそうで、全部終わるのに6月いっぱいかかりそうです。

そういう意味でも、私はすごいことを成し遂げたのです。

とにかく、私は多くの人の心に感動と忘れがたき思い出を刻むという、偉業といってもいいほどのことをやり遂げたのです。

だからこそ、きちんと振り返る必要があります、今後につなげるためにも。

というわけで、

キセキ(奇跡)のキセキ(軌跡)…「奇跡」と「軌跡」が逆でもいいのですが…を、構想の段階から振り返りたいと思います。

第1章「構想」へ続く