投稿者「ysdream」のアーカイブ

ysdream について

1997年から2013年までバルーンアーティストとして活動、現在はサラリーマンをしながらボランティアなどでバルーンアートの活動をしています。

好きなことを極める、ということ

こんにちは。

ここ最近、私は思うところがあって、過去の作品をデジタルデータ化する作業をしています。すると、「自分のやってきたことはすごいことだった」ということを改めて実感しました。

 1998年9月の作品

 2000年4月の作品

 2001年11月の作品

上記はほんの一例です。もっとたくさんの作品はこちらからご覧ください。

最新の作品集タイトル最新の作品集(2014年以降)

旧Y’s Dreamの作品たち(1997~2013年)

振り返ってみると、

好きなことを極めるということはこういうことなのだな

という想いがしてきました。

気が付くと、

生み出した感動はものすごい数になっていました。

そして、

どれだけの人たちに夢と希望を与え、どれだけの人たちを元気づけてきたのでしょうか…

20年以上の前の作品たちも、つい最近の作品たちも、同じように多くの人たちに夢と希望をもたらしています。

私が創り上げた作品たち、そして感動の瞬間たちが、いつまでも心に残る…

そのような生き方、そのような生き様を、多くの人たちに伝えることによって、この殺伐とした社会を変えていきたい…

好きなことを極めたからこそ、伝えられることがあるのかもしれません。

ごあいさつ及びご案内

ようこそ風船たちが奏でる夢の世界へ!

以下の画像をクリックしていただきますと、それぞれのページへジャンプできます。

バルーンアーティストYohei Kajikawaについて

お仕事の依頼などのご案内

ご希望の場所へ風船をたくさんお届けします!

最新の作品集タイトル最新の作品集(2014年以降)

バルーングラフィックタイトルバルーングラフィック集

ふうせんまつり~ゆめの国の宝さがし~

ぷちふうせんまつり

2019Balloons Make Everyone Happy!プロジェクト

旧Y’s Dreamの作品たち

くまさんのげんきだま(発達障がいのお子様及びその親へのメッセージ)

プロモーションビデオ

SNSなど(最新情報はこちらからご覧いただけます。いずれも新しいウインドウが開きます)

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その人なりの作品がもたらすもの

こんにちは。

最近思うこと。

風船は人と人の想いをつなぐ…

かつて、その役目を担っていたのは花、とりわけ「生花」でした。しかし、花自体がプリザーブドフラワー、アーティシャルフラワーなどと領域が広がり、一方ではフラワーショップがバルーンに進出したり、あるいはその逆がみられるなどしています。

そして、もっと顕著なのが

ただ単に風船を買うのではなく

作り手の想いでバルーンアーティストを選ぶ

というお客様が増えている、ということです。

これはとあるバルーンアーティストの方がSNSで述べられていたことなのですが、

バルーンはバルーンというただのプレゼントや飾りなんかではなく「愛情を形にできる手段」だ

と確信したそうなのです。

親の心、親の愛情を子どもに伝えることができる…それがバルーンなのです。

その想いをカタチにできる人が、バルーンに携わることができる人なのです。

そうしてみると、私はかなりのハンデを背負っている、といわざるを得ません。残念なことに、私はいわゆる「毒親」に育てられました。小さい時から過保護、更には過干渉を受けて育ち、今でもそれが続いています。その悪影響は深刻で、加えて先天性のASD(自閉症スペクトラム…いわゆる「アスペルガー症候群」に該当する)。愛着障害を併発し、結果適応障害、強迫性障害に…完全主義、自己否定といった悪影響は今でも影を落としています。

このようなどうしようもない親とは、本来絶縁するのが良いとされています。ただし、それは親が意図してやっている場合に限ります。私の場合、親の教育方針が意図してそうしたのか、それとも親自身が厳格に育てられ、どうしてもそうなってしまうのか(この場合親もまた「毒親被害者」となる)、つい最近まで分かりませんでした。母親の故郷である鹿児島にも何度も足を運びました。結果、後者の可能性が極めて高い、と思うようになりました。加えて明治から先の大戦終戦までの時代背景、「郷中教育」の影響が強い鹿児島鶴丸城下の風土などが複雑に絡み合い、自分の力ではどうすることもできないところに原因があるという結論に至りました。実際母親は私に依存する傾向があります。そして、母親のみならず父親も自己肯定感はかなり低いとみられ、その結果愛情がゆがんでしまったと私は考えています。

こうしてみると、私は悪条件に満たされています。加えて「一般職業適性検査(厚生労働省編GATB)」に基づいた適性という面では「不適性」という判定さえ受けています。2013年に廃業した時、GATBテストを実際に受けてみて、私は腑に落ちました。

どんなに努力してもダメなはずだよ、これでは

つまり、本当は不適性といわざるを得なかったのです。全く適していない土地に不適な作物を植えた、あるいは軟弱すぎて地盤改良も困難なところに建物を建ててしまった、そういうレベルだったのです。

ところが、それでも私は風船に生命を吹き込み続けています。バルーンアーティストであり続けています。なぜか…

本当に好きだから

なのです。

そして、自己否定、完全主義の結果、壊滅してしまった旧Y’s Dreamとは何が違うのか…

自己肯定感

がカギを握ります。実際問題、旧Y’s Dream時代、私はストイックを極めていました。恋愛禁止、禁欲主義…「頂点しか見えない」という感じで、ゴールのないマラソンを全速力で駆け抜けるような日々を10年以上過ごしていました。「自分をほめるなんてもってのほか」という考えでした。

そのような「自己否定の塊」を捨てたからこそ、いまでもバルーンアーティストとしてあり続けることができるのです。

たくさんの「おめでとう」と「ありがとう」につつまれて

こんにちは。

先日「バルーンセラピー」を商標登録した、と述べたところ…予想していなかった事態が起きました。

延べ238の「いいね!」

おめでとう!の声多数。

「やったぁ」「すごーい」「素晴らしい」「誰にでも出来ることではありません」「ぴったりのネーミングですね」「わかりやすく、かつ的を得た、とてもすばらしい商標だと思いますよ。これからのご活躍がさらに楽しみになりました」等々…

ただ風船が好きで好きで、その風船で社会に奉仕したい、という想いで活動を続けていたところ、「それを形にしたらどうか」というとある方の勧めで「ダメでもともと」というつもりで登録申請を出したら…このような結果に。

登録商標

という一つの「無形知的財産」を私は築いたことになるのです。

それだけ私が「風船に生命を吹き込む」という想いで作品たちを制作してきたということに対する結果として受け止めています。

で、この「無形知的財産」ともいえる商標、有効期間は10年です。

分納を選択したので、5年に1回、すなわち2026年3月(まで)に後期分の商標権の登録料を支払うことになります。

というより、「無形知的財産」を築くことができるまでになった、ということが一種の「ブランド」です。

そこから先は、自らのブランドでライフスタイルを提案するのです。

私が生命を吹き込む風船たちで、一人でも多くの人に夢と希望と感動を与え続ける…

もはやこの生き様が「ブランド」になったのです。その裏にある真剣勝負、私とみんなの想いを風船たちに詰め込む、ということ…

こうなると障がいがあろうがなかろうが、あるいは親が何と言おうが関係なくなります。その先にあるのが…

たくさんの「おめでとう」と「ありがとう」につつまれた風船たちと共にある幸せな日々

です。

風船の力、バルーンセラピー…

こんにちは。

実をいうと、この数か月、無気力状態が続いていました。

「バルーンショップオープン」から「ふうせんりょういく」まで、断念することばかり…コロナウイルスが原因ではありません。

長期的な計画と視野が必要なことばかりである一方、今後数年以内に自分の身に降りかかるであろうことを考えると、今スタートさせても途中で頓挫する可能性が非常に高い

という考えに至ったのです。完全に思考が保守的になっていました。そればかりか、

バルーン業界の進歩と変化はどんどん激しくなっている。それについていけなくなりつつある

とさえ考えるようになっていました。

思えばこの25年間、私は挑戦し続けていました。そして今があるのです。

ゆえに、自分には…

経験、という無形の財産がいつの間にか築き上げられていた

のです。そればかりか

それを生かしてできることはまだまだある

のです。

2021年3月、私は

バルーンセラピー

を商標登録しました。難関とされる商標登録をクリアできるほど、自分がしてきたことはすごいことだった、ということになります。

風船でどれだけの感動を生み出し、どれだけの人を元気づけ、そしてどれだけの人の心をいやしてきたのでしょうか。

それを形にできただけでもすごいことだと考えています。

その経験を生かせるのが、まさに福祉の分野。私が福祉や介護について勉強している理由がまさしくそれです。当初は高齢者介護の分野で働きながら勉強するつもりでしたが、新型コロナウイルス感染拡大の結果介護職の在り方が大きく変わり、私はとてもついていける代物ではなくなってしまいました。何しろ安全最優先、人命最優先を基準にすると、感染予防をすべての行動の中心に据えなければならない状況下で、片手間ではとてもできない状況。加えて旅行業をはじめとした観光業界などからの人材流入・労働移動が急増し、これまでの売り手市場から一転買い手市場への変化が起きています。

しかし、これまで主張しているように、高齢者・障がい者から児童福祉分野に至るまで、風船の持つ力による癒し効果、エンパワーメント効果は大きいものがあります。

一定の制限のもとでの経済活動が長期的に続き、それを社会が受容し、経済が停滞する中での再成長シナリオに入る

という予測を私は立てました。社会システムが一変する、と私は考え、その結果

バルーン市場は大幅に縮小する

と予想、ただでさえ環境が激変する一方で学びなおしが必要な状況なのに、果たして自分は必要とされているか、とまで考え、無気力に陥っていたのです。それでも必要、とされているのでしょう。

需要がある限り、私はバルーンを続けることにします。

今年に入ってからの作品だけで構成したバルーングラフィックです。

ふうせんりょういく、バルーンセラピー…

こんにちは。

発達障がいを抱え、悩んでいる人たちに風船でできることはいったい何か…

先日、とあるピアノ教室の発表会を手掛ける機会がありました。というより、このコロナ禍で発表会が安全上できない状態になり、「何か形に残ることはできないか」という相談を受け、作ってみました。

下の方が最初制作したもの、正月をはさんで上のようにやり替えました。

子どもたちはこの作品にすごく感動したらしいです。

そのピアノ教室で「音楽療育」を行っているのですが、そのカリキュラムの中で風船を使っているそうなのです。聞くと、学校の授業でリコーダーに苦しむ子どもたちが結構いるらしく、発達障がいの子どもたちは肺活量の問題があることがよくあるらしいです。そうこうしているうちに、苦手意識を持つようになり、結果「音楽」が「音が苦」になってしまうのだそうです。それを克服するために、風船を使っているそうなのです。

音楽を用いた療育は最近幅広く取り入れられています。私が以前勤務していた会社の放課後等児童デイサービスでも取り入れているところがありました。実際療育の様子を見学したこともあります。

他方、最近は「さっかありょういく」なるものもあるらしいです。日本発達支援サッカー協会

さらに、私の周辺では、「好きなことをとことんさせてあげよう」ということをベースにした放課後等児童デイサービスも複数立ち上がっています。その一環として風船を療育に取り入れよう、という動きが出てきました。

このような流れを総合的に考えた結果、

風船を通して子どもたちの発達を支援し、生きる力を身に着けるプログラムを確立する

ことを目指して、

ふうせんりょういく

を編み出していくことにしました。その先に自立、就労がある、という考えに至りました。

昨年、私は高齢者の認知症予防並びに生きる意欲の醸成を目指して

バルーンセラピー

なるものを立ち上げました。このコロナ禍で高齢者施設への出入りが困難な情勢になり、停滞していますが、同じことは障がい者福祉にも当てはまります。

ふうせんりょういく・障がい者雇用バルーンショップ・バルーンセラピーの三位一体で動かし、回していく

必要があると考えています。

その優先順位を総合的に考えた結果、プロジェクトの順序を入れ替える必要が生じました。さらに

常に私の想いを発信し、同時に作品を展示し、いつでも購入することができる場所が必要

ということになり、広島市内の某所で開設の準備を進めることにしました。スペースそのものは狭くてもよいと考えています。

このような状況の変化を考えた結果、一度にやろうとするとすべてが中途半端になってしまう。当初のクラウドファウンディングはいったん先送りしたほうが良い

という結論に達しました。

このピアノ教室はおそらく、風船のサブスクリプションを導入するモデルケースになりそうです。すでに「風船があるからこのピアノ教室に通うことが楽しい」と思い始めている子どもたちもいるそうです。春は桜、夏は海、そしてハロウィンにクリスマス…夢は広がっています。それよりなにより、

私が生命を吹き込んでいる風船たちがどれだけの夢と希望を与えているか

ということにつながります。その先にあるのが

くす玉がはじけ、たくさんの風船と紙吹雪が舞い、たくさんのおめでとうとありがとうに包まれる

その高揚感と達成感を味わうことによって、自己肯定感が培われ、生きる自信につながる

ということです。それがすなわち私が目指していることであり、「ふうせんりょういく」「バルーンセラピー」の趣旨なのです。

自分らしく華開こう

こんにちは。

先日、近くのとあるショッピングモールでものすごいバルーンアートの作品を見ました。

このショッピングモールにはハロウィンのカボチャやトナカイが展示されていたことはありましたが、まさかここまで…という規模の作品は初めて見ました。というか、

あの「ふうせんまつり」に匹敵する、あるいはそれ以上の作品

でした。おそらく広島最大規模の作品でしょう。

※他人様の作品については原則として一切掲載しない方針です。

「ふうせんまつり」の作品たちは、1週間以上かけて制作しましたが、噂によると一晩で制作したという話も伝わっています。もしそうだとすれば、すごいことです。

記録保持者が記録を超えられてしまったような気持ちになりました。

こういうのを見ると

負けたくない

という思いがしてしまいますが、相手は世界一にもなった経験のある方。同じ土俵で戦っても到底太刀打ちできません。

しかし、私には

日本トップクラスのバルーン演出を手掛けてきた自信

があります。

ふうせんまつりのクライマックスのバルーンシャワー

このバルーンシャワー、合計約1500個の風船たちが舞い降りています。先日も

とある野外ライブで合計約500個の風船をスパークリリースさせました。

これほどの演出を手掛けられる人は日本でも限られています。これ以上の演出を手掛けている人はそれこそごく一握りです。

それだけのことができる、ということ自体、私は誇りに思えますし、「ふうせんまつり」を企画立案して成功させたばかりか、感染対策を施しながら「ぷちふうせんまつり」を開催できたということ自体誇れることです。何しろ「ぷちふうせんまつり」の会場内で撮影した写真を年賀状に使ってくださった方がいたようです。

人を感動させる作品を作ることができる、ということ自体誇れることだと思います。

それだけのことをしてきたからこそ、伝えられることがあります。

まずは「ふうせんりょういく」で形にし、「バルーンを障がい者雇用に活用する」方向性を築き、最終的に「障がいがあっても働けるバルーンショップ」のオープンを目指します。

 

 

「自粛」から「自祝」へ、そして…

こんにちは。

2021年がやってきました。といっても新暦で、旧暦ではまだ2020年です。

この2020年という年、周知のとおり新型コロナウイルス感染拡大で、ありとあらゆる活動が停止を余儀なくされました。一方では1780年ごろから240年ほど続いた「土(地)の時代」が終焉を迎えました。1780年ごろといえばフランス革命、アメリカ独立宣言、イギリスでは産業革命と、今日の資本主義の源流があった時代です。

2021年は「風の時代」が始まる、といわれています。この「風の時代」は現在進行形の「情報化」がより進む時代とされ、これまでの価値観が一変するといわれています。

て、今の新型コロナウイルス感染拡大ですが、残念ながら1月下旬から2月上旬にかけての時期までは「オーバーシュート」が起きてしまうとみています。これまでの潜在的な感染がどんどん顕在化しているのが現状ですが、この1か月間で「医療崩壊」が一部で起きるとみています。特に首都圏と旭川(道北)など北海道の一部と広島市、高知県が危ないです。大阪と兵庫については連携不足による「自滅」とみています。これらの地域では下手をすると火葬場のパンクさえ起きかねないほどの危機的状況にまで至る恐れがあります(これが起きると「末期的症状」、昨年の春はニューヨークが陥り、現在は全米各地がこの状況に陥っている)。

一方、旧正月とされる2021年2月12日ごろには、ワクチン接種のめどが立つとみられます。この時点で何らかの見直し及び検証がされると考えています。以降はワクチンによる薬害多発や震災の発生など不測の事態が起きない限り「経済を極力回す」方向へ向かうとみており、3月ぐらいには昨年2020年の秋ごろの状況までは戻るとみています。その後は秋ぐらいまで時間をかけて経済復興に取り組むことになるでしょう。その中で旅行業や従来型のホテル並びに旅館、貸切バスなどは力尽き、これらの業種から介護などへの「労働移動」が進むと私は予想しています。

※不測の事態が起きないとも限りません。そうなると危機的状況を超え、「破綻」レベルにまで至る可能性もあります。75年前、1946年に日本は「国家破綻」し、その結果が「預金全面封鎖」だったのです。

そのため、私は2月中旬まで自粛を続ける方針です。人との接触を最大90%減らす所存です。しかし、その先を見据えた行動は必要です。

ところで、私は既に2022年を見据えた行動に動いています。2019年、令和が始まり、平成の時代に構想した「ふうせんまつり」は形になり、同時に私は「バルーンと福祉の融合」を目指すことにしました。その最初の段階が「介護職員初任者研修」修了でした。この段階は終わり、次に進もうとしたところに新型コロナウイルス感染拡大。停滞を余儀なくされました。昨年2020年はいかにして耐え忍ぶかだけを考える時期となり、ほとんど何もできなくなりました。昨年にしたことはほぼすべて今年2021年、それも2月下旬以降に向けての準備活動ばかりでした。

その中で「行政からの助成金の対象になる可能性がある」といわれ、取り組んでみたのが「ぷちふうせんまつり」。これは人通りの多い場所にギャラリーを借り、そこをショーウインドーに見立てて作品を制作し、中で感染予防のため人数制限などをしながら風船に触れる体験をしていただくという内容でしたが、これをやってみてわかったのが

楽しいことに飢えている

という現実。当初3日間で100人程度来ればよい、と考えていた私の予想を大きく上回り、近くでハロウィンイベントがゲリラ開催されたという状況を考えても1日だけで120人を超える来場者が来たという、まさかの結果。会場を公開した3日間の入場者数は210人を超える結果に(金曜日38名様、土曜日120名様以上、日曜日約55名様)。新型コロナウイルス感染者は出ず、行政からの助成金はかかった費用の約90%の金額が年末に支給され、用意したフライヤーは9割程度配布でき、結果的に成功に終わりました。

これらを受けて、私は今年2021年、あるスローガンを掲げました。

自粛から自祝へ

自祝とは…自分に「おめでとう」といえるようになること、自分のために「くす玉のひもを引っ張る」ことができるようになること

当初考えていた「障がい者雇用を目指したバルーンショップオープン」は目標時期を2022年春へ先送りにしましたが、「障がい者就労」ができるバルーン活動に取り組むことにしています。準備不足として延期したクラウドファウンディングについては、本年春以降に取り組むことにします。風船を通して達成感や自己肯定感を培うことができる活動をこれからの活動の中心に据えることには変わりありません。

私の周囲では、「やりたいことを思いきりさせて、達成感と自己肯定感を培う」ことを目指した放課後等児童デイサービスや児童発達支援等の療育施設を立ち上げる方が相次いでいます。その中で

ふうせんりょういく(仮称)

というプログラムを今年春までに立ち上げることにしています。すでに要請が来ており、その基盤として2016年に作成した「くまさんのげんきだま」をリニューアルします。それを踏まえ、段階的なプログラムを作成することにしています。これに並行する形で、いわゆる児童福祉における「18歳の壁」問題を解決するための「障がい者就労」を目指した形態の整備を進め、最終的な形としてバルーンショップのオープンを目指します。

※就労継続支援B型、いわゆる作業所の開設も検討しましたが、人員の問題から見送り、厚生労働省の補助金を受け取ったうえで一般就労させる形の方がよいと考えています。他方「就労継続支援A型」はもはや制度として破綻していると考えており、現実に閉鎖や断念が相次いでいます。

他方、高齢者向けの認知症予防におけるバルーンの活用ですが、これは新型コロナウイルス感染拡大が収束してからの展開を目指しており、引き続き準備活動を進めます。「バルーンセラピー」を商標登録出願しましたが、これも準備活動の一環です。安全を最優先に考えると、現状ではまだまだ難しいです。

そして、私自身が「生きた教材」となるよう、バルーン演出やバルーン装飾はこれまで同様、引き続き取り組みます。昨年同様無理をしない範囲で引き受けることにします。ただし、単に仕事を「こなす」ような状態にはしたくありませんし、なってはいけません。そのような状態になった場合は、仕事を断ることも考えています。加えて、5月の大型連休をめどに、価格体系を見直す所存です。5月の大型連休以後は「割に合わない」仕事は断る方針です。

話を「ふうせんりょういく」に戻しますと、一つアイデアとしてあるのが、

誕生日には療育の場をバルーン装飾でいっぱいにし、みんなで一緒に「ハッピーバースデー」をうたい、最後にバルーンクラッカーのひもを本人に引っ張って、同時にみんなが紙吹雪をまいてお祝いするということをやりたい

ということです。

また、

何か目標に向かって取り組み、達成した時にも、同じようなお祝いをするということをしてみよう

と考えています。

くす玉のひもを引っ張る勇気、それをみんなでお祝いする…そのことが達成感と自己肯定感を培うことにつながる…

まずはこれを形にしようと考えています。

感動を残すことができる、心に響く表現者として

こんにちは。

コロナ禍に振り回された2020年もあとわずかとなりました。

同時に私も50歳…半世紀生きたことになります。人生の3分の2を過ぎたことになります。

私が初めてバルーンアートというものに接したのは25歳の時でした。1996年のことです。当時の私については、すでに何度も述べてきました。パチンコ、競馬、競輪…ギャンブルに溺れていました。そのまま流されるようにして人生を過ごしていたら、一体どうなっていたのでしょうか…何も生み出すことがなく、ただ漫然と時間だけが過ぎ去る無味乾燥な人生になっていたような気がします。あるいは、生きる意味をなくして、自ら命を絶っていたかもしれませんし、もしくは親との激しい対立の結果、殺人を犯して塀の中で日々を過ごすことになっていたかもしれません。

以後、私が生命を吹き込んだ風船たちは、どれだけの人に夢や希望や元気や感動といったものを与えることができたのでしょうか…

1997年1月、第1回のJapan Balloons Network Convention、2019年まで23回続いたJBANコンベンションの初回に参加したさい、私は無数の風船と紙吹雪にまみれる経験をしました。私はこの経験などから

ただ風船が好き、というだけではなく、それを社会に役立てることはできないか

という想いから、少しずつバルーンアート作品を創り出し、自然発生的にY’s Dreamが生まれました。さらに言えば、「Y’s Dream」は「仮称」でした。

以来20年以上、2013年8月に一度廃業してからの約数か月間などを除いて、私が生命を吹き込んだ風船たち、私の手が生み出した作品たち、そして私が形にした幾多の感動の瞬間…は、多くの人々の心に響き、忘れがたい感動を残すことができました。

一方でこの2020年は、コロナ禍によって、社会が沈滞ムードになると同時に、人々の心は荒みました。1988年、今から32年前、昭和天皇が生命の危機にあった時もここまでの自粛ムードはありませんでした。子どもたちは楽しいことに飢え、自殺者はここ数年なかった高い値で推移しています。ひょっとすると先の大戦終戦後の数年間に相当する状況なのかもしれません。

そんな中でも、私は9月から12月中旬までの短い限られた期間で可能な限り風船たちに生命を吹き込み、数多くの感動を生み出すことができました。

このバルーングラフィックは主に2020年の10月から11月にかけて制作した作品たちを中心に構成したものです。制作できる期間が短い以上、可能な限りの作品たちを作ってきました。

そして改めて認識しました。

私は風船で多くの人たちに夢と希望と感動をもたらし、元気にすることができる

ということを。

こういう世の中になってしまったからこそ、私が生み出した作品たちが多くの人々の心に響いた

という事実。

多くの人に夢と希望と感動を与えられる、くす玉のような大輪の華を開かせる存在になりたい

という一途な思いから走り続けた日々…

気が付けば、そうなっていました。

これからは、

より多くの人々のくす玉を華開かせる手助けをしていきたい…

そういう想いで残り3分の1になった人生を歩んでいきたいです

風船屋という「職業」について思うこと

こんにちは。

今日は本題の前に、「くす玉」の語源の話。「くす玉」はもともと

縁起物

だったのです。そしてさかのぼれば、平安時代の端午の節句の厄除けの飾り物として「枕草子」にも登場する、由緒あるものだったのです。もっとさかのぼれば大国主命(オオクニヌシノミコト)が薬の神様であり(その由来については出雲神話にもある)、その大国主命を祭る大神神社から新しい酒ができた際につるす杉玉を賜り、「酒は百薬の長」ということから「薬玉→久寿玉」となり、縁起物、厄除けの意味合いが強くなったそうです。それが明治なのか大正なのか不明ですが、門出の席での縁起物となり、進水式などに用いられるようになったそうです。以前呉市にある「大和ミュージアム」で進水式の歴史に関する展示があり、見させていただいたのですが、戦前に圧縮空気を使った紙テープや紙吹雪噴射装置を使った進水式が行われていたそうです。確か「蒼龍」という航空母艦の進水式(1935年=昭和10年)の進水式だったと思いますが、そのような記述がされた資料がありました。

これが戦後、1955年(昭和30年)ごろにはNHKの「紅白歌合戦」で使用され、1963年には「アップダウンクイズ」(MBS=毎日放送)で使われるようになります。そこから時代が流れ、平成にはキャノン砲と呼ばれる機械式クラッカーと現在スパークバルーンと呼ばれるものに進化していきました。1995年(平成7年)の「紅白歌合戦」ではステージの上に巨大な風船をセットし、それがフィナーレにはじけ中から小さな風船が無数舞う光景が見られたようです。

他方、当時一般的ではなかったスパークバルーンを「くす玉バルーン」として売り出し、多くの人に広めたのは実は私が最初で、2000年にはすでに全国宅配をしていました。運送会社によっては扱いに慣れていないのか雑すぎてトラブルが多かったりもしましたが、1球1万円前後で全国に宅配できるサービスは大変な好評をいただき、廃業する2013年まで数多くの笑顔の華を咲かせてきました。今は運送業界が人手不足に陥り、加えて送料単価が大幅に上昇したため、宅配が難しくなってしまいました。

どうしてこのような話をしたのか、といいますと、すぐ近くに「縁起物の店 AMULETMARKET」というのがオープンしたのです。早速見に行ったのですが、

もう少し早く知っていれば…

という話になりました。オープンの際に「くす玉」を使いたかったそうです…

というわけで、来年オープン1周年の際には「くす玉」をバルーン装飾付きで持ってきます!

で、ようやく本題。

とある方が

中高生の進路決定の際に、子どもたちの{知らない}をなくし、進路にビジョンをもって決められるような教育サービスを創りたい

という想いをSNSに記載していました。これを見て、私は自分の高校生時代を思い出したのです…が、それが

何もないスカスカの高校時代

だったのです、私は。高校を「大学進学のための予備校」と割り切っていた私は、

大学に入ってから具体的な進路は決めればよい

と考えていました。そのため、せっかくいただいていた生徒会役員の話(「文化委員長」だった)も断り、部活にも入らず、漠然と受験勉強をしていました。何しろ当時は

1浪は当たり前、2浪も珍しくない

という受験地獄。当初は早稲田だの明治だのはたまた立命館だの、有名私立に進学したかったのですが、合格したのは国公立大学2校。しかし進学した大学で様々な出会いに恵まれ、そこそこ都市だった(福岡へはすぐに行ける距離にあった。当時の福岡は「第二次天神流通戦争」が始まったころ。その後大阪や名古屋に匹敵する都市になるまでに急成長を遂げた)こともあり、退屈なこともなく、大学生活は充実していました。

そして就職活動に入るのですが、私は「安定志向」「大企業志向」でした。ただ、業種は決めていて、最初は旅行会社を志願していました。ところが体育会系の風土から「これは違う」と思い始めていたところに鹿児島県加治木で起きた高速バス事故。私はバス会社を志願するようになり、方向転換。結果バス会社に入ったのですが…

パワハラに派閥争い…私はギャンブルに溺れてしまいました。これが25年前、1995年、平成7年のこと。さらにギャンブルだけではなく、新興宗教にまで足を突っ込んでしまいました…

その私の目の前に舞い込んだのが、一枚のチラシ。そこには

バルーンアートスクール受講生募集

とありました。締め切り日ギリギリに申し込み、初級と中級だけ受けたのが1996年4月。当時は

バルーンを職業とするのは難しい

と考えていたのですが…結果は

天職

になってしまいました。

しかしなぜ、このようなことが許されていたのでしょうか…

今は遅くても高校1~2年生までに将来の進路を決めなければ厳しい

と私は考えます。大学にしても専門学校にしても、将来の進路をしっかり決めて受験勉強をすることが求められています。そして就職活動では、それまでの躾けられ方、育てられ方、生き方から人生のビジョンまでが総合的に問われるようになりました。

私はもともと安定志向、大企業志向で、公務員になろうか、とも考えていました。現実問題、システムがしっかりしていた会社(西鉄や広電、両備など)にいた場合、会社についていく、という選択をして、バルーンアーティストになることを考えなかったと思います。たまたま入った会社が当時はその場しのぎの経営をしていて、派閥争いも起こり(その結果パワハラが起きたり、地方議会のごたごたに巻き込まれたりした)、結果

この会社にいても地域社会に貢献できない、むしろ体で覚えた風船の楽しさや美しさや華やかさを伝えていった方が社会に貢献できる

と考えるまでに至って、プロのバルーンアーティストになったのです。

ただの風船が大好きなおっさんが多くの人に夢と感動と希望を与えるアーティストになった

のは、実は一種の結果論だったのです。その背後では、たくさんの汗と悔し涙を何度流してきたことか…その分、何ともいえない天に舞い上がるほどのものすごい達成感や高揚感も味わうことができましたが。

現在の小学生のうち約65%の人たちが今存在しない職業に就く

といわれる時代になっています。バルーンアーティスト、バルーンデコレーター、バルーンパフォーマーといった職業は、それこそ1990年代後半に職業として認知され始め、今では立派な職業として成り立っています。しかしながら今でも、バルーンの市場の成長が供給の増加に追い付いていないのが現実です。

他方、発達障がいは早期診断、早期支援、早期療育が求められる時代になっています。スクリーニングは必要でしょうが、ASD(いわゆる「アスペルガー」、私はこの部類に該当)やADHDといった、学習障害を伴わない発達障がいについては、その人の個性を尊重して伸ばし、ほめる教育をすれば、本人の適性に合った分野で大きな成果を残すことができるまでに成長すると考えます。ただし診断は3歳ぐらいからが良いです。あまりにも早期診断が過ぎますと、誤った療育が行われたりして、子どもの可能性を摘み取ることにつながります。

あと、親の意識です。私の両親は残念ながら「行き過ぎた躾」に走ってしまいました。昭和の時代は「きちんと」した子供に仕上げるのが良い親、とされていたのですが、これはもう求められていません。引きこもりになった50代を80台の両親の年金と財産で面倒を見る、という「8050問題」がクローズアップされていますが、これは社会変化から取り残された家族の悲劇です。私もそうなりかけましたし(今私は「ひきこもりニート」になっているが、これは例のウイルス問題の影響を受け、やむなくそうしている)、親はいまだに「きちんと」した子供であることを私に求めています。もはやどうしようもない、と私は考えており、諦めているのですが。

私の人生で暗黒時代なのは、高校生時代と、過労によるうつを発症し廃業に追い込まれた2012年5月~2014年2月でしょう。後者は文字通りの「暗黒時代」なのですが、前者は

選択を誤ったが故の暗黒時代

です。正直高校生時代はいい思い出が少ないですし、高校生活は失敗でした。その分を大学でかなり取り戻せたので、何とかなりましたが。

あと、大学生時代に一度、東京で思いっきり遊んでみる、ということをやったことがあります。大学1年生の後期が終わったころ、当時できたばかりの「日本最長の豪華サロン付き高速バス」を使って1週間上京し、八王子の格安ビジネスホテルに滞在して(当時はウイークリーマンションは割高だったし、「東横イン」のような比較的安くて安心なビジネスホテルチェーンもなかった)、東京や横浜などを歩き回ったこともあります。東京ディズニーランドもその時初めていきましたし(その後もう1回しか行っていない、「シー」はいまだに一度も行っていない)、当時全国でも東京に2軒(うち1件は広尾、確か「仙台坂下」のバス停前にあった、今も西麻布で続く{タキシードベア}である)だけあったバルーンショップの両方を訪れました(もう1軒は渋谷のセンター街の近くにあったが、早い段階でなくなった)。結果、「東京に住まなくても…」となり、以後平成が終わるまで「東京は遊びに行くところもしくは用事があるときに通うところ、住むところではない」という考えになりました。インターネットの普及・高速化で東京に住むメリットもあまり感じなくなっていましたが、プロのバルーンアーティストとして活動していた2000年代の10年間、厳密にいえば1998年ごろから2011年ごろまでは年に複数回東京へ出張していましたし、東京都心及びその周辺のウイークリーマンションを必要な時だけ借りて拠点にしていました。東京に関する記述は本題から外れるし、当分東京に行く必要はなさそうなので、このあたりで終わりにしましょう。