月別アーカイブ: 2019年11月

なぜ発達障害があるのに風船を続けるのか?

こんにちは。

先日、本当に久しぶりに「悔しい」現場を経験してしまいました。

当初予定していた場所が「視覚障碍者向けバリアフリー設備(点字ブロック等)」と干渉し、設置不能となり、やむなく場所変更。

スパークバルーンシャワーは2個用意したうち1個は風に流され、もう一つは本番寸前にアクシデントで消える…

アクシデント多発の現場となり、本当に悔しいことこの上ありませんでした。

こうなると、いくら気を付けても出てしまうのが、私が抱えている発達障害の特性…

キャパシティオーバー→パニック発生…悪循環

当然クレーム続発となり、多大な迷惑をかけてしまうことに…

もっとも、今回のイベントプロデューサーは、私の抱えている障がいを理解していた方。このため、「実は…」となり、ほかの関係者も一同納得し、収拾がついたのですが…

「発達障がい者」である現実が壁となってしまい、残念かつ悔しい結果になってしまいました。

しかし、私がそれでも風船を続けていくのには、理由があるのです。

発達障がい、とりわけASDやADHDに苦しむ人たちの希望であり続けたい

ASD(自閉症スペクトラム、いわゆるアスペルガー症候群)やADHDに苦しみ悩む人たちは、周囲の理解のなさから、多大な苦しみを抱えて生きています。そして、人生の選択肢が狭まり、つらい思いをしています。

さらに、発達障がいに対する偏見もいまだに見られます。一番悔しい思いをしたのは、7年前、2012年に私が発達障がいを抱えているという現実をカミングアウトした途端、手のひらを返したように態度を変えて、取引停止をした結婚式場が出たことでした。発達障がいがある、ということを理解して、取引継続を申し出たり、再度取引を申し出た結婚式場もあったのですが…

このような偏見を見返したい、という想いもバルーン活動継続の意思の一つとなりました。ヘリウムガス払底及びその他の諸事情が重なって、2013年に一度引退を余儀なくされるのですが…2016年に現役復帰することができました。今こうして風船に生命を吹き込み続けることができているのも、多くの方に私が抱えているASDという障がいを理解していただき、それを踏まえた上でバルーンアーティストとしての活動ができているからなのです。

だったら、なぜ「障がいのある人を起用するのか」という意見が出てきます。先述の発達障がいを理由に取引を停止した結婚式場もそうですし、今回も一部でそのような声が出たと聞きました。しかし、それを踏まえて共存していくことも必要だという意見が今回もあったようです。

そうなると、私が創る作品たち、感動の瞬間たちの意味が大きくなります。実際、私はごく一部で

天才バルーンアーティスト

と呼ばれているようです。私の作品よりももっと素晴らしいものを制作するバルーンアーティストが数多くいるにもかかわらず、です。突き詰めていくと

風船に対する想い、姿勢がほかのバルーンアーティストにないものがある

ということになるのでしょう。実際私自身、そう思いつつあります。

当初、私は「もっと素晴らしい作品を制作する人はほかにいくらでもいる」と思い、自分の作品に満足していませんでしたし、納得していませんでした。もっと上がいる、と思い、ひたすら自己否定をしていました。そればかりか、納得いかなければ、大幅値引き、代金受け取り辞退といった行為を何度もしていました。かつてのY’s Dreamにはネットショップがありましたが、そこでは

「お客様が満足しなかった場合、代金は支払わなくてよい」

というようなことを標榜していました。お客様を感動させるのが私の仕事であり、それを全うできなかった以上、代金を受け取る資格はない、という考えからでした。結果、未収が多発しましたが、私は「満足も感動もできなかったから、代金を支払わないのだ」と考え、ごく一部の悪質なケースを除き、未収のままとしていました。旧Y’s Dreamの10年以上の間、そのような未収のままとなったものは、合計すると30~40万程度になっていたようです。旧Y’s Dreamの年商が1年で1000万円あるかないかでしたので、10年余りで1億近くの総売り上げと考えると、バルーン演出の結果代金をいただけなくなった「返還欠場」と併せても0.5%にも満たないですが…

「返還欠場」(これは何度も述べているように、ボートレースのフライング等のスタート失敗すなわち「スタート事故」が語源)という言葉を

そのような自己否定の塊であり、引退に一度は追い込まれるまでに至った私が、どうして復活できたのか…

自ら抱えている障がいと真正面から向き合い、そしてそれに伴う生きづらさ、その原因は何か、ということを根本から解明できたことが大きかったのかもしれません…答えを求めて何度も故郷である鹿児島を訪れたりもしました。

同時に、周囲の理解が大きかったことに感謝しなければなりません。とりわけ4年前、2015年に私を拾ってくださったあの会社…結果、あの会社には3年あまりお世話になりました。最後は目指す方向性に大きなずれが生じて退職せざるを得なくなりましたが、そこで多くの人に出会い、さまざまなつながりができ、その中で新たなつながりがたくさん生まれ、結果「ふうせんまつり~ゆめの国の宝さがし」を成功させることができるまでに至りました。あの会社によって、退職した後も、新たなつながりができたり、次につながるステップができたりしました。本当にあの会社には感謝しています。

現状私は無職でありますが、就労移行支援事業所に通う必要性はありません。あの会社にいた3年余りの間に、多くの出会いがあり、多くのチャンスを与えられ、結果バルーンアーティストとして復活できたのです。そしてレクリエーション介護士2級の資格取得、さらに介護職員初任者研修を修了するまでに至り、長年続けてきたバルーンアーティストとしての経験を高齢者・障碍者福祉につなげるという次なるステップにまで結び付けるまでに至ったのです。そして、「ふうせんまつり~ゆめの国の宝さがし」の成功…

ここまで書いてきて、やはり

本当に好きだからこそここまでやってこれた

という結論に至りそうです。というか、、現実にそうなのです。正直私は日本でも5本の指に入ります、風船に対する想いの強さ、という点では。

好きなことを好きなようにやってみたら

こんにちは。

本日のソウス「モラハラから回復するするために…」

上記ソウスによると、モラハラ(モラルハラスメント)をする人は、画一的な価値観を押し付けます。その結果、自分が大切にしてきたものを自ら手放さざるを得なくなってしまいます。6年前、2013年に旧Y’s Dreamを廃業せざるを得なかったのも、自分の価値観を曲げて、親の価値観に合わせるためでした。両親そのものがそのまた親の価値観に合わせて自分の価値観を捨てた人で、他人の価値観に合わせて生きることが最善だと信じて疑わなかった人でした。

加えて私も両親も儒教の信者で、「よしんば親が過ちを犯したといえど、子は泣いてそれに従わねばならぬ」という「孝」の教えに従っていました。私の実家の書斎には「論語」があり、私も読んでいました。そして、私は

親の価値観に従い、親の願いをかなえることが親を安心させることであり、すなわち親孝行である

と信じて疑いませんでした。今でも親孝行はそうだと思いますし、親孝行は子の義務だと思っています。よって私は義務を果たしていないことになります。

ところで、旧Y’s Dream時代、私は常に上ばかり見ていました。「誰も見たこともない感動の瞬間を自らの手で創り出す」ことを究極目標に、10年以上の長きにわたって風船に生命を吹き込み続けてきました。その結果生み出された感動の瞬間たちは、とてつもないものばかりでした。何千何万もの風船たちに生命を吹き込み、作品を制作し、感動の瞬間を生み出し、多くの人たちの心に残る感動を創り出せたのです。

これを私は否定しようとしていたのです。実際私は10年間、何もしていなかったように見せかけた職務経歴書を作成したことさえあります。自らをむなしくし、親に従って、親を安心させることが親孝行であり、それが子どもの義務だ、と私は考えていたからです。

これをしようとして、6年前、何週間ももがき苦しんでいたことがありました。

それを止めたのがこれでした。

練習制作したバルーングラフィック

練習制作したバルーングラフィック

「もう風船に生命を吹き込むことはない」と考えた私は、これまでの歩みを何らかの形で残そうと作品集を制作しました。その作品集はこちら その表紙をアレンジしたのがこれなのです。

以来6年間、気が付くと私はこのようなことをやっていました。

ふうせんまつりのクライマックスのバルーンシャワー

好きなことを好きなようにやってみた結果がこれでした。

この空間のいたるところで

おめでとう!

という言葉が飛び交っていました。

自己否定を乗り越え、自己理解を深め、自らを受け入れることができる自分に生まれ変わることができたからこそ、このように自らの夢をかなえることができたのですし、好きなことを好きなようにやってみた結果、その場に居合わせた何百人、さらには映像を見た千人近くの人に、いつまでも忘れることのできない感動と勇気をもたらすことができたのです。

その後半年近い時間が過ぎましたが、もう今ではいろいろな面で困難です。ヘリウムガスの価格はこれをやった時点で暴騰が始まっていて、これに費やしたヘリウムガスは暴騰の兆候をつかんだ時点で早い段階の確保に踏み切るなどして確保していました。その後も暴騰は続き、ヘリウムガスの価格は当時の倍近くになってしまっています。ほかにも様々な点で、多くの方々の支えによってこれだけのことができたと思います。ゆえに、

ありがとう

という言葉も同時に飛び交っていました。

たくさんの笑顔の華を咲かせよう!

広がれ笑顔の輪!

このバルーングラフィック、すでに100枚を超えています。その風船たち一つ一つはすべて、私が生命を吹き込んだ風船たちだけで構成されています。本当に好きなものを続けた結果、これだけのものが生み出されたのですし、自己否定を重ねながらもまだ見ぬ感動を目指して走り続けた10年以上の日々とつながったのです。

好きなことを好きなようにやる、そのひたむきな姿は多くの人の心を魅了します。私が生み出した、創り出した感動の瞬間、その背後には私が幾度となく流してきた汗と涙がたくさんしみ込んでいます。それこそくす玉が華開く瞬間のように、たくさんの感動と笑顔をもたらします。

自己否定を重ね、悩み苦しんでいる皆さんこそ、思い切って一度くす玉のひもを引っ張ってみてください。思い切ってくす玉のひもを引っ張って、自分を認める一歩にしてください。その思い切った一歩が、自己肯定感というかけがえのない宝物を見つけ、はぐくむ最初のきっかけとなるはずです。

かくいう私は、思い切ってくす玉のひもを引っ張ったから、とてつもなく大きなくす玉を華開かせることができ、「見たことのない感動の瞬間を自らの手で創り出す」ことができたのです。

風船の持つ力…改めて痛感

こんばんは。秋の夜長です。

今日2019年11月4日、とあるところでとあるイベントが行われていました。

画像は昨年2018年のものです。

昨年2018年まで、私はこのイベントを運営する会社の社員として、総合的な取りまとめを担当していました。イベントを実施するにあたって、総合的な要の役目をしていたのです、もちろん裏方として。

今年の春、私はこの会社を去り、このイベントの運営は若手社員が中心になったそうです。

で、このイベント、昨年まで裏の取り仕切りを担当していたものとして、かつあのイベントを自ら手掛け、成功させたものして、全くノータッチの一方、ひそかに応援しながら見届けようと思いました。

結果、今年は

風船のふの字も、バルーンのばの字もなかった

といいたいところでしたが…

入口にフォトバックを作っていた(これは風船を使用していた)

とある福祉協賛団体様がバルーンアートをしていた

これだけでした。代わりに手作り感いっぱいの装飾が多数あり、苦心の跡が多々見受けられていました。

肝心の内容は、

新たな挑戦

と銘打って、工夫の限りを凝らしていました。その努力は私に伝わり、とても好感を持てました。これに関しては、正直昨年より良い印象を抱きました。皆さんの努力に触れ、快い一日を過ごしていたのですが…最後に差がついてしまいました。

フィナーレに向かうにつれ、これまでは徐々に人が増えてきていました。ところが今年は逆でした。

会場が閑散とし始めたのです!

私はショックを感じました。何が違うのか…答えは明白でした。

必死に関係者の皆さんが会場を盛り上げようとしているのは伝わりました。

必死にみんなが頑張っているのは伝わりました。

それでも…

これは昨年の別のイベント。

今年も基本的には同じでした。

そして…

やはり何かが足りませんでした。

正直言います。

最後に差が付く決め手となったのは

風船演出

でした。

改めて、風船の持つ強力な力、魔法の力を思い知らされました。

考えてみれば、昨年まで私はこのイベントを

一年の集大成

と位置付けていました。風船以外の面も含む、この会社での仕事すべてにおいてです。だから、私はこのイベントを、別名

グランプリ

と呼んでいました。当然用意する風船、バルーンの作品はその年最高のものにふさわしいものでした。

今年、その「グランプリ」に匹敵する「ダービー」に相当するイベントを自ら企画し、取り組みました。それもあって私はこの会社を退職したのです…安定は失いましたが、取り組んで正解でした。言い換えれば、

この会社で「グランプリ」に昨年まで4度取り組ませていただけたから、自ら「ダービー」を手掛けることができた

のです。

さらに、「グランプリ」に複数回取り組み、「ダービー」を自ら手掛け、成功させるまでに成長させてくださったのも、この会社のおかげでした。

改めて感謝しています。

だからこそ、応援していたのですが…結果は

どれだけ風船の持つ魔法の力が強いか

を改めて痛感する結果になりました。

先月10月、私は今後のバルーンの活動に危機感を抱かざるを得ない局面が相次ぎました。正直、「先は短い」と思いました。でも、続けられる限りは続けよう、ということになりました。

私が風船によって生み出すことができる力が、どれだけの感動をもたらせるか、改めて痛感させられました。

私は風船を一度捨てた人間です。それを拾ってくださったのがこの会社でした。この会社には感謝しかありません。だから応援していたのです。

幸い、私はチコちゃんにはならずに済みました。あの決まり文句を吐き捨てる必要はありませんでした。それだけこの会社に関わる全ての人たちが頑張っていたのは伝わりました。しかし、「ダービー」と呼ぶほどのあのイベントには及びませんでした。そこで改めて、私は

風船が持つ力はどれだけのものか

その風船で私はどれだけの感動を生み出すことができたのか

を痛感しました。だからこそ、

続けられる限り続けることにします。