月別アーカイブ: 2013年12月

一時代を築く、ということ

こんばんは。

あと2日。

このブログの更新もあとわずかです。

今回はこの写真をアップします。

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とあるところで行われた1998年のバルーンショーです。

今ではほとんどのバルーンショー、クライマックスにはスパークバルーンが定番になっています。

当時スパークバルーンは「くす玉バルーン」と呼んでいました。

というより私がそう名付けたのです。

当時私は石見交通という島根県西部にある小さなバス会社に勤務していました。ところがあの

たけしの誰でもピカソ

に出演して以降、いろいろなところに呼ばれるようになりました。

それまでは有給休暇をあまり使わない方でしたが、一転一番消化する社員になってしまいました…

もちろんバルーンアーティストとして呼ばれないときは、通常勤務をこなしていました。

路上故障時の対応もしましたし、元日の当番もしたことがあります。路線バスを走らせている以上、元日も動きがあります。

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こちらは2000年1月ごろの「くす玉バルーン」の写真。

この時点で全国発送をしていました。

確かこの写真はご利用いただいたお客様から送られてきたものでした。

そしてひたすら風船を膨らませて10年以上の月日が流れました…

気が付けばバルーン業界は大きく変化していました。

私がバルーンアートの世界に足を踏み入れた当時、業界は今とは比べ物にならないほど閉鎖的でした。

それが今では、趣味でバルーンアートを手軽に楽しめるようになり、バルーンギフトは定着しました。

日本に数えるほどしかなかったバルーンショップはいたるところにでき、ほとんどの都市でバルーンが手軽に手に入るようになりました。

さらにインターネットでもバルーンショップは

乱立

状態になり、逆に店の個性を出していかないと淘汰されるほどになりました。

2003年ごろでしたか、とある方が

道なき道を切り開いてまだ10年もたっていません

とおっしゃっていました。この方も一時代を築き、今では人材育成に力を入れられている方です。

それから10年近くがたち、今ではひとつの文化に発展しました。

バルーン業界はもはや

多様化と成熟

の時を迎えつつあります。

多様化と成熟に至っていたからこそ、ヘリウムガス払底という事態にも大幅な需要低下、市場縮小の影響を最小限に食い止めることができたのかもしれません。

その一方でバルーン業界は姿を変えつつあります…

このブログでは何度も述べてきましたが

ギフト部門はフラワーアレンジやラッピングとの融合が進み

バルーンパフォーマンスは芸人の世界として一分野を確立し

バルーンドレスなるものも見られるようになりました。

一方パーティー、さらにはブライダルはは大掛かりで派手なものから

家族や友達、さらには恋人との絆を確かめ合う場に変化しました。

その中でバルーンの立ち位置も大きく変化しました。

時代は大きく動いています。

バルーンの在り方も大きく変わりました。

当然バルーンに携わる人たちに求められるものも変わります。

時代を作り上げるという気概を持つことから

日常の些細な感動を分け与えられる人たち

そして人と人の絆を大切にできる人たちに

主役が変わりつつあります。
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実は、今月12月に入って久しぶりに風船を膨らませて作品を作りました。実に3か月ぶりです。この写真はその作品です。

上はとあるオフィスでのクリスマスパーティー、下はとあるところに私個人から送ったバルーンギフトです。

私は今後、プロとしてではなく、アマチュアの立場で風船を膨らませることになるはずです。

この記事の最初の写真のころに戻ることになります。

もう私が目指していたものは、時代が必要としなくなりました。

時代の変化に合わせてバルーンの世界も変化し続けるでしょう。

一つの時代を築き上げたからこそ、私に悔いはないのです。

まさに一つの道ができて、町ができ、町が成長し、そして次の世代へ引き継がれるがごとく…

私はひっそりと役目を終えます。

夢を売る仕事…納得する仕事ができるか?

こんにちは。

このブログもあと2日で更新終了です。

言いたいことをほとんど言い尽くしました…

ただ、絶対に風船に携わる職業についている皆さんに忘れてほしくないこと

それは

「夢を売る仕事」

であること。

私は最後の方では、惰性で風船を膨らませていました。

風船に携わる仕事の中で、最も大切なことを忘れていました。

かつて、

風船は金のなる木

という動機からバルーンビジネスの世界に入った方々がいました。

そういう人たちを私は知っています。

そもそもの出発点が違いました。

出発点が違えば、目的地も違いました。

一致していたのは「風船」という手段だけでした。

結局私は自分を見失ってしまいました。

最後は納得するような仕事ができなくなっていました。

そこへ追い打ちをかけるように

自らは精神疾患を発症し、

家族も精神疾患に陥り

さらにヘリウムガス払底…

私は引退を決断しました。

納得のいく仕事ができない状態になった以上、仕方ありません。

ここまで書いてきてぜひご覧いただきたいものがあります。

Y’s Dreamサービスポリシー

 

スパークバルーンへの思い

※リンク先のページは廃止されましたので、当ホームページ内の別のリンクに貼っています。

そして

Balloons Make Everyone Happy!

この原点を忘れてしまったら

歌を忘れたカナリヤ

と同じです…

だから、風船に携わるプロフェッショナルは

夢を売る仕事であることを忘れてはいけない

のです。

私はこのようなことをかつて言ったことがあります。

本当にお金のことだけ考えてビジネスをするのなら

私は葬儀屋をやっていた

だったらなんで葬儀屋でなく風船屋をするに至ったのか

本当に風船が好きだったから

としか答えようがありません。

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本当に風船が好きだから、可能性を追いかけ続けてきました。
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最後の最後まで夢と可能性を追いかけ続けてきたのです。

♪夢を追いかけるなら、たやすく泣いちゃだめさ…

かつての名曲、渡辺美里「My Revolution」より

これだけは言っておきたい…その3

おはようございます。
とても表に言えない、身もふたもないことを↓に書いたので、この記事は限定公開記事にしました。
これから述べることは胸を張って言えることなので、公開記事にします。
昨日
日本最大のバルーン演出が見れる番組
を最初から最後まで見ていました。
公式のツイッターにまでバルーン演出の一部が公開され、それを制作した会社のツイッターには出演者の予告が…どこで使われるのか注目しましたが、まさか複数回使われるとは…
しかし番組を通して思ったことは
「もはや行き着くところまで行ってしまった。これ以上は新しいものは生み出せそうもない」
ということでした。
そしてこうも思いました。
「切り口を変えることでしか新しいものは生み出せない」
今年のJBAN Convention(毎年夏に行われる日本最大のバルーンアートの祭典)のバルーン演出セミナーは
「きっかけとストーリー」
がテーマでした。これは何を意味するのか…演出部門で新しいものは出尽くした、ということにほかなりません。

デコレーションやギフトでは、新しいものがどんどん生み出されています。どんどん進化するバルーンアート…一方で演出は限界…
かれこれもう4年近くになるのですが、このようなセミナーがありました。
同じところが主催していたのですが、当時はバルーン演出がどんどんまだまだ開拓の余地がありました。そしてその年(2010年)のJBAN Conventionで出した作品がこちら。

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これがこの作品の原型となりました。

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そして

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へと進化したのです。
そして、私は
やりつくした
というような気持にいまなっています。
決して「やり遂げた」のではありません。
「やり遂げた」という言葉を使うのは真の成功者、人生の勝者だけです。
私のような人はおこがましくて使えません。
やりつくしてもこれ以上の発展は見込めない
だったら撤退しかない

のです。
ただ、やりつくすことは別の意味で達成感があります。
やれるだけのことはやった
だからもういい

やりつくした以上、次の手を考えなければいけないのですが…
そこでたどり着いたのが、
学術的な研究
というテーマでした。
どうして風船は人々の心を幸せにするのだろう
そういうところについて、勉強していきたくなってきました。
未知の世界に挑む、というのが私は好きです。
バルーン演出にもはや、未知の世界はないようです。
一方バルーンや風船の心理的、学術的研究は全くなされていないのが現状です。
ただただビジネスとして前へ前へ進んでいったというのが正直実感している現状です。

そういう意味で、私はやりつくしたのです。
一方ここ数年でバルーンアートの世界は大きく変化しました。
新たに展開しようとすれば、勉強に勉強を重ねるしかない。
それができないところは、お客様から見放される
お客様から見放されたところは衰退するしかない
私が限界を感じていたのは事実でした。
辞め時、引き際を探していたのもまた事実。
来年2014年以降、私は違う形でバルーン、風船に接していくつもりです。
一度やりつくしたからこそできることがあります。
それに私は取り組むことにします。

これだけは言っておきたい…その2

こんばんは。

さて、間もなく日本最大のバルーン演出が見れる番組がスタートします。

何かは推理してください。

なお、宮崎・高知・島根・鳥取のごく一部の地域ではご覧いただけません。

閑話休題。

「価値観の違い」

なのですが、これについて思うところがあるのです。

バルーン演出にいったいどれだけのお金がかかるものなのか、いまだに知らない人が結構います。

風船、どうせ安いものでしょ、と思ってはいけません。

結構なお金がかかっているとだけお伝えしておきます。

というより、いいものにはそれなりにお金がかかってしかるべきものなのです。

その一方で私はバルーン演出の需要の開拓という命題に取り組みました。

スパークバルーンの全国宅配を最初に始めたのは私です。

2000年にはすでに販売を始めていました。

最初、私は「くす玉バルーン」と名付けていました。ところが「割る=縁起でもない」という発想からなかなか売れず、そのうちにスパークバルーンという名前が定着しました。

そして10年以上かけて、市場を作り上げてきました。

「感動の瞬間を手軽に楽しめるようにしたい」

という一心から13年以上の間ひたすら風船に生命を吹き込み続けました。

結果、スパークバルーン市場は成熟しました。

今では日本のほとんどの場所でスパークバルーンが手に入ります。スパークバルーンをお求めの皆様、今後は皆様お住まいの地域の最寄りのバルーンショップをご利用ください。

結局市場を創造することによって、新たな価値を生み出すことができるようになるのです。

そのためには血の汗を流す努力と覚悟が必要なのです。

全くないところから市場を作った…

というのは私のバルーンアーティスト人生の中でも誇りに思いますし、

人生最高の財産だと思います。

その中でも忘れられないのが…

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2007年、夕張市の成人式に無償提供したもの(財政難のため成人式予算がなく、余ったブライダルフェア用の予備を提供したら、大反響を呼んだ)
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2006年、八女郡上陽町の成人式のスパークバルーン(吸収合併に伴う最後の成人式)
2013年もあと4日。

このブログもあと数回…

これだけは言っておきたい…その1

こんにちは。

ブログに終止符を打つ前に、どうしてもバルーン業界に言っておきたいことがいくつかあります。

今日から数回に分けて、それらを書いていきますが、その中にはどうしても厳しいことが含まれています。

この点を承知の上でお読みいただければ幸いです。

ここ数年のバルーンギフトブーム。

バルーンショップも多様化し、様々なタイプの店が全国各地に増えてきました。

それぞれの店が個性を出し合って、それぞれの店が伸びています。

しかし中には

「この店、何がしたいのかわからない」

という印象を抱かざるを得ない店が散見されるのも事実です。

数年前、私にバルーンショップのことで相談をした方がいました。

私はその方が経営するバルーンショップを訪問しました…が

これといった方向性が見当たりません

私は相談をお願いしてきたオーナーの方にいろいろ聞きました。

家賃のこと、客層のこと…

そして、私はこの方に

「これでは赤字を垂れ流すだけ。閉店した方がよい」

と告げました。

私の勧告を受け入れ、このバルーンショップはすぐに閉店しました。

以後も私の仕事を何度か手伝うなどしていましたが、結果1年程度で挫折してしまいました。

要は

自分の目指すべき方向性がはっきりしていないところはもたない

ということです。

私が引退を決めたのも

自分の目指すべき方向性を失った

からでした。

あと、バルーン業界の流れはこれからも少しずつ変化していくでしょう。

東日本大震災、ヘリウムガス払底といった事態がここ数年の間に立て続けに起き、バルーン業界の流れが一気に変化しました。この2,3年のようなドラスティックな変化はしばらくは起きないでしょう。しかし少しずつ変化していくということは大いに考えられます。象徴的だったのが東京ディズニーリゾートでのバルーンのテーマにもかかわらず風船を使わなかったという事例でした。

とどのつまり、

バルーンデコレーターになるという夢をかなえることがゴールではない

のです。

バルーンデコレーターになって、それからどのような作品を作っていくか

そしてどのようなマネジメントを行っていくか

ということが重要なのです。

そのためには勉強を怠ってはいけません。

惰性で、あるいはただ何となく風船を膨らませて売っているバルーンショップが散見されますが、

そのような店は間違いなく淘汰されます。

私のバルーンアーティスト人生16年余りは

絶えず研究、探究、勉強の連続でした。

そしてある時は悔し涙を流し、

またある時はたとえようのない快感を経験しました。

一部の方からですが

私のバルーンに対する真摯な姿勢から多くのことを学んだ

という声をいただいています。

その中には、今第一線で活躍されている方もいます。

それでいいのです。

私がやってきたことは間違っていなかった、ということになるのですから。

何度も言うようですが

ただ風船を膨らませたり

お金のことだけを考える

というようなバルーンデコレーターはもういりません。

どれだけの人を幸せにできるか

どれだけのハピネスを人々の心に届けることができるか

それがバルーンデコレーターの使命であり、仕事であり、すべてなのです。

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私の今年の作品のコラージュです。

バルーンから離れて3か月あまり…その2

こんにちは。
やはり撤退はやむを得なかった、と最近は思い始めています。
特定日に集中する傾向は相変わらずで、加えてヘリウムガスの供給は多少は緩和されたにしても相変わらずの厳しさ…聞いた話では10月のハロウィン前後に一気に供給がタイトになったらしいです…おそらくブライダル需要が伸びたからでしょう。
さて、私は今、
さみしさと気楽さ
が同居したような気持なのです。

バルーン演出に取り組むときは、いつも緊張しました。
競艇の優勝戦のスタートに匹敵する、ものすごいプレッシャーを感じました。
バルーン演出が成功したときの気持ち…ですが、
ほっとした、という気持ちになることの方が多かったですが
それ以上に
体中を電流が走り抜けるような
たとえようのない快感

を味わうことが何度もありました。

この動画集はそのような瞬間をとらえたものです。地響きのような歓声がすべてを物語ります。
この気持ちをもう味わうことがない…と思うのが一番さみしいです。
その一方で失敗したときのあのつらさを味わうことももうないですが…
これは競艇のスタートで失敗してフライングをしてしまった時と同じです。
ある選手は、フライングをすると首を切られたような心境になるといってました。
毎年のようにビッグ競走(SGおよびプレミアムG1)の優勝戦でフライングがありますが、その時の心境は本当につらいものがあるのは容易に察することができます。
それと同じです。
私は2000年の当初「10年バルーンアーティストを続けられたらいい」と思っていました。
当時私は30代になる少し前、29歳でした。
結果、10年以上続けることができました。
続ける中で、「成功し続けることの厳しさ」というものを学びました。
気がつくと、惰性で風船を膨らませるようになっていました。
一度得た環境の心地よさはある意味ぬるま湯と同じで、その環境が何かのきっかけで変化すると、途端に行き場を失ってしまいます。まさしくその状況に私が陥ってしまいました。
このブログは近日中に更新を停止することにしています。
ホームページもアーカイブ化する予定です。
しかし当面はそのまま残しておくことにします。
私がたどった道から後輩の若い人たちが
一つでも多くのことを学んでいただくことが
バルーン業界のみならず、風船の文化の発展につながると思うからです。
私が描いた最高の感動の瞬間・・・
それが数多くの人々の心の中に残っている以上
もう私はやるべきことはやったのです。

だから引退しても悔いはないのです。

バルーンから離れて三か月余り

おはようございます。

すっかり冬になってしまいました。

最近、とあるブライダル業者と話をした際、このような話を耳にしました。

「バルーンリリースばかり見る」

「バルーン電報は相変わらず多い」

やはり、スパークバルーンなどのバルーン演出が減った模様でした。

今年の秋、ヘリウムガスはやはり一部で払底があったものの、心配されたほどの供給不足にまでは至りませんでした。しかし価格は高止まり、結果バルーンリリースの価格自体が高騰したものの、人気が底堅いため目立って減る、ということはなかったようです。

逆に、

バルーン演出の希少価値が上がったのではないか

と私は見ました。

つまるところ、高くても出るときは出るが、

ビジネスとして成り立つだけの需要がない

のです。

私はこの需要を開拓するために、これまでやってきたのです。

結果は、自らの身をボロボロにしてしまいました。

バルーンギフトにしても、流れが大きく変化しています。

ヘリウムガスを使うタイプのバルーンギフトが減り、アレンジメントタイプのバルーンギフトが増えています。

そしてここ数年顕著だった

他のものとの組み合わせ

が今年はより一層顕著になっています。

具体的には

おむつケーキ

ラッピング

との融合です。

フラワーアレンジ

との融合も目立ちました。

私の印象としては

ここ数年目立ったバルーン業界の流れの変化がより顕著になった

というものです。

その結果

特定の分野に集中させるのはかえって経営的にも得策ではない

し、

一人でバルーンビジネスを展開することに対しての限界

に直面してしまいました。

昨年私はうつ病に倒れ、その根底に発達障害があるということがわかりました。その背景には家庭環境や先祖代々続く「イエ」の流れというものがありました。

今年の秋、私はバルーン業界から離れて、改めてバルーンビジネスとはいったいなんだったのか、というものを客観的に見つめました。

そして、いずれ機会があれば、

風船というものはなぜ人々を幸せにし、感動させるのか

ということを改めて勉強しなおしたい

と思うようになりました。

もう私は第一線でバルーンビジネスに携わることはまずありません。

一方私はこうも思います

道なき道を切り開くためにはがむしゃらさも必要

しかしそこに道ができ、その道をどんどん後輩たちが通っていくようになったとき

身を引くことも必要なのではないか

そしてそのような状況に置かれた時

自分が切り開いた道を発展させるためには

何ができるのかを考えなければならない

そのため、私は今、リハビリと再就職活動に取り組んでいます。

あともう一つだけ言わせていただきますが

バルーンビジネスと親の介護

私は両立は難しい、と考えています。

自分のペースで仕事ができるから、一見両立できる、と思いがちです。

しかし私はそうは思いません。

親の介護は重労働であり、一方で国の財政が厳しいこともあり、自民党政権は

「家族の介護は家族でするのが基本」

という路線をとっています。

今の総理が言う「美しい国」とは、かつての「イエ」を基本とした古き良き時代の日本に根差した国づくりを目指す、ということです。

私はこの考えに賛成であり、それ以上に父親がこの考えなのです…が、どう見ても母親は「精神障碍者」で、このままでは間違いなく介護が必要になります。

そこまで見据えると、こうなるのも仕方ありません。

風船の仕事からいつ身を引くの

今でしょ!

東日本大震災から三年近くたち

時代は激変してしまいました…

時代が変わったら、生き方も変わるのは当然のことです。

時代が変わることによって、不要になったら、職業再訓練も必要なのです。