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私にとって平成は風船と共にあった

こんばんは。

ただいま平成31年4月30日午後7時過ぎです。

平成はあと4時間余りで終わります。

平成の始まりは静かでした。昭和が先代天皇陛下の崩御とともに幕を下ろし、日本国中喪に服している中での幕開けだったのです。とにかく自粛ムードに覆われていました。当時、このようなお祝いムードの中での平成の終わりをだれが想像できたのでしょうか。

一方、平成元年に広島の中の棚商店街で、このようなイベントが行われました。確か「GOGOひろしま春まつり」の一環として行われていました。その名も

ふうせんまつり

今私が取り組んでいる「ふうせんまつり」の原型なのです。

この「ふうせんまつり」、平成2年も同じ中の棚商店街で開催されました。この時私はアルバイトスタッフとして、風船を膨らませていました。

当時私は大学進学のため広島を離れることが決まっていて、広島最後の思い出とばかり、たくさんの風船を膨らませた記憶があります。ミス広島(今の「広島観光親善大使」)と一緒に風船をもって本通りを練り歩いた思い出もあります。その時の風船は今でいう配り用風船で、今では環境保護の観点からしてはいけないプラスティックバルブが付いた風船を空に飛ばすようなこともしていました。

その後しばらくして、一時期風船飛ばしが廃れました。理由は「風船を飛ばすと海洋動物が死ぬ」という小さい子どもさんの訴えが世間を動かしたからでした。しかし、実際にウミガメの死骸から検出されたのは、風船についていたプラスティックバルブで、一方でゴム風船は天然ゴム100%の生分解性のものに急速にとってかわられました。そして爆発の危険があった水素ガスは風船を膨らませるための使用は業界内で全面規制され、数年の間に風船飛ばしは復活しました。平成7年には日本で初のバルーンアートビジネススクールである「エミリーズバルーンアートビジネススクール」がスタートし、今も形を変えながら続いています。

かくいう私も1996年に「エミリーズバルーンアートビジネススクール」に参加し、翌1997年には第1回の「JBANコンベンション」に参加しています。以降の足取りはもう何回も述べているので今日は省略します。

以上は20年以上前の作品たちをピックアップしたものです。

当時はまだ20代でした。

こちらは平成最後の作品。

おそらく、来る「令和」の時代、私は平成ほど風船を膨らませることはないですし、そのつもりもありません。「ふうせんまつり」が私にとって、バルーンアーティスト人生の総決算みたいなものになるでしょう。そのつもりで、私は当初4月28日を予定していたのです。

「ふうせんまつり」ののちも、バルーンアーティストとしての活動は続けるつもりです。しかしそれだけでやっていくつもりは毛頭ありません。バルーンアーティストとして生きてきた20年余りの時代、その経験から次の世代に私が伝えられることはたくさんあります。

夢をかなえることの大切さ、夢を持ち続けることの大切さ…

これらを伝えることが今後、令和の時代で私がやっていくことだと思っています。令和の時代、私は「余生」だと考えます。昭和の時代、定年は55歳でした。私もその年齢が近づいています。令和がどのような形で終わるのか、今回と同様、生前退位という形で終わりを告げるのか、それとも昭和と同様、「崩御」という形で葬送行進曲とともに終わるのか、わかりません。少なくとも平成と同じかそれに近い期間続くと思われます。大正のように15年では終わらないと考えます。むしろ今回の時代の移り変わりが私の人生の中で最後になると私は考えています。仮に令和が30年続いたとして、私は80歳近くなっているはずですが、おそらく私はそこまで生きていないでしょう。令和の時代のどこか(おそらく令和末期{令和27~29年?}あたり)で私は人生を終えると思います。昭和に生まれ、令和で人生を終える…最初から最後まで生きた時代は平成だけだった、ということになりそうです。その平成の大部分を共に生きた…のが私にとっては風船だったのです。

風船好きのルーツは昭和にあった…平成でそれを形にした…今、「ふうせんまつり」という大きなプロジェクトに取り組んでいますが、これを成功させた時点で私の「平成」が完結します。そこから私は「令和」が始まります。

風船で伝えたい想い

こんにちは。

平成が間もなく終わります。新元号も「令和」と決まりました。「昭和」と響きが似ていて、いまだに「りょうわ」と「令」を「大宝律令」の「りょう」から読んでしまっています。しかし、出典が全く異なるらしいです。私は「昭和への逆戻りでは」と一瞬思いました…

平成が終わるまでに、このブログの記事はもう1回だけアップしようと考えています。なぜなら、私にとって、

平成は風船と共にあった

と考えていますが、それについては平成が終わるまでに詳しく述べたいからです。

さて、とあるバルーンアーティストが作品を制作している現場を目にする機会がありました。この方は世界トップレベルのバルーンアーティストの方なのですが、その姿に私は元気をいただきました。

私はことあるごとに、

風船に生命を吹き込んでいる

という表現を使っています。風船に生命を吹き込む…とはすなわち、

自ら生命を吹き込んだ風船たちが、その使命を果たすために世に出る

ことを意味します。その風船たちに生命を吹き込むのが、私たちバルーンアーティストの仕事なのです。

私の制作した作品たちを見て、よく言われるのが

元気をいただけた

ということです。こういわれると、私の心の中でくす玉がはじけます。

それだけではありません。バルーン演出は一瞬一瞬が勝負です。失敗すると「返還欠場」です。

※「返還欠場」という言葉はたびたび出てきますが、今一度改めて解説します。これはもともとボートレース(=競艇)の用語で、スタートを失敗する(=「スタート事故」と呼ぶ)と当該選手は即退場となり、当該選手に対する賭け金を全額返さなければいけなくなる、すなわち「返還」=全額お返しする、「欠場」=最初からなかった扱いになる、というルールになっていることから、こう呼ぶようになったそうです。バルーン演出で失敗することを私は「演出事故」と長年呼んでいて、やはり代金をお客様に返すことになり金銭的にも大きな損失になるのです。さらに、「事故」という言葉から非常に悔しく、つらい思いをします。

その代わり、成功すると

天に舞い上がる、体中を突き抜けるほどの快感を覚える

のです。この時、多くの人たちの心の中にいつまでも残る感動を生み出すのです。そういう感動を生み出すことができるのが私なのです。

もう何度も述べているのですが、私はくす玉がはじける瞬間にあこがれ、この世界に入りました。まだ20世紀だったころ、「くす玉バルーン」を生み出し、世に送り出しました。インターネットで通信販売し、全国へ数多くの「くす玉バルーン」を届けることができました。2000年から2013年まで、10年以上の長きにわたり、続きました。

2012年、うつ病を発症し、2013年に旧Y’s Dreamを廃業しました。うつ病の治療と検証の過程で、発達障害が判明しました。さらに両親が厳しい躾を受けて生育した結果、私は「虐待」レベルの暴力を伴った躾を受けました。私が廃業を決断したのも、自らを犠牲にして両親を安心させ、心の平安を取り戻すために下した決断だったのです。

しかしながら、私は風船を捨てることはできませんでした。すべてを捨て去ろうとしても、どうしても風船が残ってしまいました。すべてを捨て去ろうとして、最後に残ったものが、その人の本質になる、といわれますが、私にとってそれが風船だったのです。私の両親はそれを捨て去れ、と命じましたが、両親の命ずるままにそうしていたら、全くスカスカ、パサパサの人間となり、無駄に年を重ねただけの単なる「子供部屋おっさん」になっています。そうなってもよい、と私は考え、「論語」をはじめとした儒教の本を読み漁り、自己洗脳を試みましたが、駄目でした。

私は「福祉関係、とりわけ同じ障がいのある子どもたちに私の経験を生かすことができるかもしれない」と考えるようになり、その結果、2015年にとある福祉事業を営む企業と出会い、3年余りその会社にお世話になりました。この会社ではいろいろな出会いがあり、経験もさせていただきました。そして勉強になりました。

私は「障がいのある子どもたちや引きこもり、ニートになっている若者たちに、私の経験を生かすことができるのではないか」という考えを引き続き持っています。その一方で、こう考えるようになりました。

「おめでとう」ということができる自分になっていた

正直、つい数年前までは私は「自己否定」の塊でした。どんなに素晴らしいことを自分が長年続けていたか、気が付きませんでした。ただただ上ばかり見て、見えない頂点を目指していたのです。その自分が、自分のやってきたことがどれだけすごく、素晴らしいことだったのか、ようやく最近になって気が付いたのです。これ自体「自己肯定」でした。そうやって自己否定を克服できた自分に「おめでとう」という言葉を投げかけることができるようになったのです。

これこそが「私の風船で伝えたい想い」なのです。

くす玉のひもを引っ張るときの気持ちよさ、それがすなわち自分に対して「おめでとう!」といえることに通じるのです。その喜び、感動を一人でも多くの人に伝えていくのが、今後(=令和)自分がすべきことだと思うのです。

私のお気に入りの瞬間たち

私のお気に入りの瞬間たち

congratulations!

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