月別アーカイブ: 2017年8月

あれから4年…まさかこうなるとは…

こんにちは。

2013年8月26日の投稿「最後は自分らしく」

2013年8月24日の投稿「恥ずかしい…でも今だからアップできる」

8月26日の投稿では「もう悔いはない」と、8月24日の投稿では「もう全身に稲妻が走る爽快感を味わうこともない…」という言葉があります。

この時点で私は、風船から足を洗うつもりでした。もう2度と風船を膨らませることはない、と考えていました。

この投稿の数日後、私は南九州に車を走らせていました。鹿児島の先祖に報告するのと、宮崎の知り合いのバルーン業者さんに機材を売却するためです。その際、霧島神宮の賽銭箱に、旧Y’s Dreamの看板を一切合切投入してきました。

2012年5月に鬱を発症、9月ごろに少し落ち着き、再開の方向性を一度は模索しました。同じ年の11月には、私しかなしえないようなバルーン演出を手掛け、成功させました。

しかし、同じ年の12月ごろから、国際情勢の変化とシェールガス革命の影響などが重なり、日本国内にヘリウムガスが入ってこない「払底」が発生。これをきっかけに、前年の東日本大震災から変化しつつあったバルーンの立ち位置の方向性の変化が決定的となる一方、払底は長期化。さらに家庭の事情も重なり、「これ以上続けると深刻な事態になる」と判断、

完全引退・転進再就職

の方向に向かうことにしたのです。

そのため、私は徹底的に自分の思考を変える訓練を自分自身に課したりもしました。バルーンの経歴を隠した職務経歴書や履歴書を作成し、転職コンサルタントに相談したこともありました。ある転職コンサルタントは「13年間ホストをやっていたのと同じ」とまで言い切りました。バルーンアーティストとしての自分を「黒歴史化」することを試みたのです。(当時制作したY’s Dream作品集も、歴史の中に閉じ込めて封印したい、その一方で私が残した遺産を他の人に自由に活用してほしい、という想いから制作したものです)

ところが、「黒歴史化」は失敗しました。

2014年春、趣味としてのバルーンを細々と再開。一方で、店舗のバルーン装飾の依頼なども来るようになる。

2015年、「精神障がい・発達障がいに苦しむ人たちが社会参加するきっかけづくりにバルーンを活用する」ことを目標としたプロジェクトを立ち上げる。このプロジェクトが現在私が所属している会社に引き継がれて、今に至る。

最新の作品集タイトル

画像をクリックすると、2014年以降の作品を見ることができます。

結局、私は

本当に風船が好きで、風船を愛し、その風船に生命を吹き込むことによって自分を表現し、その生き様が多くの人を元気づけているという事実

に直面していたのです。

その私が生み出した、新たな表現手段

バルーングラフィックタイトル

これも画像をクリックするとご覧いただけるのですが、これをベースにした私の生きざまをダイジェストにして、精神障がいや発達障がいに苦しむ人たちを元気づけるために制作された本が

くまさんのげんきだま2016表紙

くまさんのげんきだま、という小冊子でした。

これはすでに多くの人に行きわたり、熊本県内のとある放課後等児童デイサービスでは、教材に使っていただいているほど、多くの人たちに夢と感動と元気を与えています。

そして今、多くの人たちに夢と感動と元気を分け与えることができています。まさに

くす玉のような存在

になっています。

私は生まれつきの自閉症を抱えています。いわゆる「アスペルガー症候群」と呼ばれる典型的な症状が出ています。加えて母親が精神疾患を抱えていて、その原因が母親が受けてきた厳しすぎる躾に原因があるとみられています。そして両親はいわゆる「過干渉」型の「毒親」でした。

私は「道に外れた親といえども、泣いて自らをむなしくして従うべき」という儒教の教えを根拠にして、自らをむなしくする努力を積み重ねてきました。しかし、その努力は実ることはなく、むしろ正反対の結果をもたらすことになりました。

何が起きたのか…「自己否定の塊」だった4年前からは想像もつきませんでした。

なぜ両親、とりわけ母親は「毒親」になってしまったのか、その原因はどこにあったのかを探求することから始まり、自分の在り方を整理するために母親の故郷である鹿児島にことあるごとに何度も足を運びました。旧Y’s Dreamの看板を置いてきたのも、霧島神宮でした。

旧Y’s Dream時代、自分で自分をほめることをめったにせず、「返還欠場」という厳しいルールを自分に課してストイックに追い込んでいました。完全主義者として、自分自身を極限まで追い込んでいました。その結果が破たんでした。

今、自己否定を捨てた私は、一転自己肯定感に満ちています。だからこそ

くす玉のような存在

を唱えることができ、実践できているのでしょう。

自分が創り上げてきたもの、自分がなしえてきたことがどれだけすごいことだったのか、一度引退して初めて知りました。あれだけどっぷり使ていた風船の世界から一度離れてみて、客観的に見て初めて自分がしてきたことのものすごさを知ることができました。

そのような経験をしているからこそ、今、多くの人たちに夢と感動と元気を与えることができるのかもしれません。

大観峰から望むくじゅう

大観峰から望むくじゅう

大観峰から望む外輪山

大観峰から望む外輪山

2013年8月、私は阿蘇の外輪山を駆け抜けて椎葉を経て霧島神宮・宮崎へ(2013年5月も阿蘇を訪れていました)。

2017年8月、またしても阿蘇を訪れました。

2013年8月

2013年8月

2013年8月

2013年8月

2017年8月

2017年8月

2017年8月

2017年8月

ちなみに画像はありませんが、この披露宴では最後のクライマックスに約250個の風船が舞い降りるスパークバルーンシャワーも行いました。すべてが一つの作品としてセットになり、多くの人を感動させることができました…が、「焼きが回っていました」。

 

 

見る人、接する人を元気にするような仕事をしたい

こんばんは。

今日は風船の画像ではありません。

大観峰から望むくじゅうと朝日

大観峰から望むくじゅうと朝日

南阿蘇から望む阿蘇五岳

南阿蘇から望む阿蘇五岳

阿蘇山の画像です。

ご存知の通り、阿蘇周辺は5年前、2012年には大水害に見舞われました。これだけでも大変つらいのに、2016年にはもっと悲惨な出来事が…熊本地震が発生しました。

画像から見える範囲では、度重なる災害から着実に復興が進んでいるように見えますが、ところどころ手つかずのままの場所がありました。特に阿蘇大橋周辺は壊滅状態で、国道57号線はトンネルを掘って移設、阿蘇大橋自体も移設して再建するそうです。

他にも今回、道中で先日の集中豪雨の被災地を通過しました。

それはさておき、私はある目的があって阿蘇の方へ向かったのですが、阿蘇はあくまでも「プラスアルファ」。阿蘇の反対側、福岡県筑後地方のとある場所に向かったのです。

そこで私が体験したことは、驚きに満ちていました。

その目的地は一つの新しい小さなレストランだったのですが、このレストランは30年近く、すぐそばの山の中で長年営業を続けてきました。2012年の大水害の際に、店舗を流され、その後再建したのですが、今年になってハムなどの燻製工房を残して週末のみの営業とし、レストランを実質麓にある古い蔵に移したのです。蔵をリニューアルして、今年の夏に営業を開始しました。

そのレストランのシェフが、女性なのですが、とあるきっかけで私と非常に親しくなったのです。

出会いは昨年秋、別府鉄輪温泉の「蒸し足湯」でした。彼女は別府を初めて訪れたとかで、何度も別府を訪れていた私は鉄輪温泉の共同湯を案内、その後時々連絡を取り合う仲になりました。

彼女はシェフを目指して、昨年名古屋から筑後地方の山中にIターンしてきたのです。

有り余るほどの自然に囲まれて、自ら理想とする料理を目指しています。

その彼女、私の風船に対する思いに共感したようです。…何が彼女と私を結びつけたのでしょうか…

共通するものは、

感動を創り出す、という想い

でした。

私は「一度彼女がこのレストランで働いている姿、そしてそのレストランを訪れてみたい」と強く感じました。

そして先日。私はSNSでこのレストランがうきは市の里の蔵に降りてきたという情報をつかみ、広島から車で片道6時間かけて訪れました。

そこで目にしたもの…

リーダーである彼女を中心に、4人の若い女性たちがそれぞれの持ち場で働いていたのですが、

4人とも笑顔が素敵!輝いている!

聞くと、4人ともIターンらしい。神奈川や秋田から、自ら輝ける場を求めて筑後うきはへ移住してきたのです。もう一人も福岡近郊からの移住者。

私は元気をいただきました。そして別れ際

「いつかこの店を風船でいっぱいにしよう」

という話をしました。

カフェ・バル 溜

イビサスモークレストラン

上記リンクでどのような店かをご覧ください。

その後私は、天ケ瀬温泉の複数の露天風呂に入った後車中泊し、阿蘇の大観峰で朝日を望んできました。

旅日記はここまでです。

ここで言いたいことは何か?

私が風船に生命を吹き込むことによって、どれだけの人に夢と感動を提供することができるのか

そして

私が吹き込んだ風船たちが、どれだけの人を元気づけることができるのか

そのような姿勢で風船に長年接してきた結果、今の自分があるような気がするのです。

…阿蘇の大観峰を訪れたのは23年ぶりでした。23年前、秋晴れの大観峰から展望した阿蘇と久住の燃えるような景色は、忘れられないほどの絶景でした。それから23年、自分が生み出してきた感動と夢は数知れません。

大観峰から阿蘇五岳を望む

大観峰から阿蘇五岳を望む

感動を生みだすためには、自ら感動する心を持ち続けなければいけない…何千年も変わらない大自然が生み出した感動の力によって、新たな感動の瞬間を創り上げる力にすることができる…

Balloons make Everyone Happy! 2016バージョン

Balloons make Everyone Happy! 2016バージョン

 

ぱんぱかぱーん!とはじけたい!

こんばんは。

今日の見出し、何だか

頭を割ると風船と紙吹雪が出てくるの?

みたいなタイトルです。

これは先日開催した「夏休みバルーン教室」の様子。

見ていただければわかるか、と思いますが、これまでの一般的なバルーン教室とは大きく異なります。

私の風船に対する想いがぎっしりと、それこそ「くす玉バルーン」のように詰まっていて、その想いがはじけるというイメージで創り上げた内容になっています。

このようなことができるようになるとは、

作品集表紙(2013年8月制作)

作品集表紙(2013年8月制作)

4年前からは想像もつきませんでした。というか、4年前、2013年の今頃、私はもう風船から足を洗うつもりでこのような作品集を作りました。当時の私はキャリアリセット、キャリアチェンジを目標としていました。どのようにしてこれまでやってきたことを無にして、全く違う自分に変わるか…

ところが、それはできませんでした。

結局できたのは、全く違う形で、風船に対する想いを通して、若者たち、とりわけ発達障害や自閉症などで夢を見失った人たちに夢と希望を与えるということでした。そのような使命を帯びて、今の会社で働かせていただいている、というのが実情です。

その結果、

風船に対する想いを積み重ねるだけのその生き様によって、多くの人を元気づけることができる

という、おそらく日本中探しても数えるほどしかいないような存在になってしまいました。

というか、

それだけ凄いことを私がしていたということに、10年以上気が付いていなかった

のです。

実際、先述の4年前に制作した作品集(画像をクリックするとその作品集がご覧いただけます)は、過去の私がしてきたことを振り返るために制作したつもりなのですが、結果わかったことは、

自分のしてきたことがいかにすごく、かつ素晴らしいことだったのか

でした。

その経験を踏まえ、他方では様変わりしたバルーン業界の動向も踏まえ、これからどうすべきか考え抜きました。

その中でも、様々な感動を生み出す機会に恵まれました。それらの作品は、

最新の作品集タイトル

上記バナーをクリックするとご覧いただけるようになっています。

確かに私は焼きが回り、技術面では到底今のバルーンアートの最先端には及びません。しかし、それでもこれだけのものを創り出せるのが現実なのです。

それだけではありません。

はじける想い

はじける想い

のようなバルーングラフィックと呼ぶ、私が創り上げた作品だけで1枚の絵ができ、それ自体の作品集までできているのです。

そして、今や私は目指していた、

くす玉のような存在

になりつつあるのです。

私が生命を吹き込んだ風船たちが、多くの人を元気づけているのです!

パンパカパーンとはじける想い

パンパカパーンとはじける想い

なぜ「パンパカパーン」を表題にしたのか、というと、

自分の生き様がそれこそくす玉のごとくはじけると同時に、多くの人を元気づけられるという姿を音で表したら、これになったからである。

自らの手によって生命が吹き込まれる風船たちによってもたらされる感動

その風船たちによって生み出された感動を自分の言葉で伝えられる私

そしてその姿によって元気づけられる人々…

そういう存在に自分が気が付いたらなっていた…これからもそういう生き方を続けていきたい