私が胸ときめく光景

私はBalloons Artistとして、この仕事についているのであるが、よく聞かれることに、「どうしてこの仕事についたのか」とか、「どうして風船が好きになったのか」という質問があげられる。これまでこの質問には「ただなんとなく・・・」としかこたえていなかった。というより、こたえられなかった。

ところがある日、ふとあるサイトを見てみると、とても興味深いことが書いていた。その内容は「私がどうして風船が好きになったのか・・・」というないようであった。

私自身の経験から言わせていただくと、私も最初、風船が怖かったようである。風船を見ると泣き出す・・・そんな子供だったらしい。加えて私は、発育障害の傾向があり、特に言葉がぜんぜんしゃべれず、小学校入学時は養護学級に入ることも検討されていたらしい。つまるところ、普通の子供とは違うような成長をしているのである。

そんなころの話である。クイズ番組などでくす玉がはじけ、風船と紙ふぶきが舞うシーンに、私は不思議と恐怖を抱いていたようであった。私はこのシーンになると泣き出したり、目をそむけたりしていた。ところが何かの拍子で、このシーンがこの上なく感動的で、この世の中で最高の光景とまでに思えるようになるのである。

これが私にとって、最初の怖いものみたさで好きになったものではないだろうか。

そう思えるようになったのは小学3年生のころではなかっただろうか。

しかし、私はもともと「鉄道少年」で、そのようなものにはあまり関心を示さなかった。ただ、「くす玉がはじけ、中から風船と紙ふぶきが舞う」光景に胸をときめかせたのだけは事実であった。

ところが、ふと目にしたある番組で、私の風船好きが一気に広がってしまうのである。それは、他ならないあの「夕焼けニャンニャン」である。私は当時、まじめ少年で、このような番組は可能な限り避けてとおっていた。また、両親との対立がもっともひどい時期で、2度にわたり家出を繰り返していた。加えて、学力低下にも悩まされ、進路に悩む時期であった。時期的には1986年、私が高校1年生のときである。

それから、私は風船が本格的に好きになった。しかし、今度は大学受験の時期にあたり、私の風船好きは封印状態になった。日本初のBalloons Shop[Tuxedo Bear]を知ったのもこのころである。

1990年、私は九州の大学に進学した。それからは以前述べたとおりなので省略するが、このサイトを見ることで私の風船に対する「原体験」について思い出させるような出来事を思い起こさせた。

私はBalloons Artistになって、一番やってみたい仕事はというと、何万個ものBalloons releaseや、Balloons Dropである。しかしこれらの「特殊効果系」が非常に難しいのである。実際私も何度かやってみたが、完璧な成功は皆無である。ただうまくいったときの快感は、たとえようがない。あまりいい表現ではないが、エクスタシーさえ覚える。

2000年のカウントダウンのことであった。私は2000個のBalloons Dropを担当することになった。「失敗したらどうしよう・・・」ものすごいプレッシャーであった。そしてカウントダウン、3,2,1、ゼロ!

私は無心になって紐を引っ張った。2000個のBalloonsは無事舞い降りた。このとき私はものすごい快感を経験した。スタッフと抱きあっていた。

それから、私はエクスタシーを感じるような仕事には残念ながらめぐり合えていない。というか、「うまくいってあたりまえ」と思えるようになってしまった。そして失敗したときのむなしすぎる気持ちを味わったことさえあった。

それでも私は風船が大好きである。この世の中にあるものの中で一番すきである。そして今でもBalloons DropやBalloons releaseに対して胸がときめく。自分がやるときには「絶対成功させるぞ」という強い気持ちになる。

次にエクスタシーを感じるほどの感激的な仕事を成功させるのはいつのことやら・・・。(2001年2月7日)

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