こんばんは。
今日は2018年8月6日です。
8月6日の広島…は広島に住む者にとって、大きな意味を持つ日である。
以前、このようなことがあった。場所は東京である。首都圏で流れる某FM局の番組でのやり取り。
DJ「8月6日という意味に何があるの?別に8月4日でもいいじゃん」
ゲストアーティスト「8月6日でないといけない意味がある」
これは某FMで生番組の中で実際にされたやり取り。私はその日、東京都江東区内のとあるウイークリーマンションにいて、この放送を聞いていた。ゲストアーティストが何を言おうとしているのか分かったので、私はこれ以上突っ込まなかったが、DJは8月6日という日が何かわかっていないと言わざるを得ず、憤慨した。
別の年の8月6日午前8時15分。
私は東京都内のとある駅のホームの片隅で西南西の方角を向いて黙とうした。周りの大人たちは何をしているのかわからない人が多すぎた。たまにメッカの方角を向いてお祈りする人を見かけるが、それと同列に思われた(私はイスラム教徒に見えた?)ようであった。
このようなことは複数回あった。O線とC線の接続駅のYU駅、T線NK駅…大阪でも同じようなことがあり、この時は競艇場で有名な地下鉄と新交通システムの乗換駅であるS駅で同じようなことをした。
このように、旧Y’s Dream時代、8月6日の前後は広島を脱出する(東京へ脱出するケースが多かったが、S駅のように大阪へ脱出したケースもあった)ことが多かったです。なぜなら、この日の広島はカオスで、交通マヒになることが多く、仕事にならないことが多かったからなのです。とりわけ8月6日が平日にあたる場合、たいてい広島を脱出していました。
その脱出に際して、大きな理由になっていたのが、
バルーンアートの全国大会
JBAN Convention
2012年にうつ病で倒れるまで、ほぼ毎年皆勤状態でした。1997年に第1回が開催され、夏開催に移行した1999年以降、8月に行われることが多く、とりわけ8月6日前後に開催されるケースが非常に多かったような気がしますし、今年2018年もまさに今開催中です。
2011年(この年は東日本大震災で開催が危ぶまれたが、「絆…頑張ろう日本」というテーマで開催された)まで、15回中欠場はわずか1回。あまりにも忙しすぎて、しかもクレーム対応まで重なった2004年だけでした。コンテストも複数回出場し、2002年にはラージスカルプチャーに挑戦したこともありました(この時に自分の限界を感じ、ラージはこの時限りとし、ほかの部門にチャレンジするようになった…チャレンジして発信することが大切と考えたからである)。
私は
「悔いの残らない作品が作れたら、その作品から多くのことをバルーンアーティストが学ぶことができる。賞取りレースは二の次だ」
という考えで臨んでいたので、
時間内に仕上げる(作品の形として残す)
ことを最優先にしていました。実際2000年(第4回)に制作した作品は作品の形が崩れ、悔いが残りました。2002年(第6回)、2006年(第10回)、2010年(第14回)の作品は自分としてはベストを尽くせたかな、と思っていますし、それで入賞しないのですから、いかにレベルが高いか、ということです。
しかし、2012年5月、うつ病を発症。
2012年、多忙という理由以外で初の欠場。2013年も深刻な状況だったため行くことができず、2014年、状況が落ち着いてきたので「バルーンの今を見に行く」という目的で作品を見に行くだけしました。
そこで私はショックを受けました。
「技術が独り歩きをしている」
以前から薄々感じてはいましたが、2012年秋以降のヘリウムガス払底(私が引退を決めた引き金ともなった)以降、バルーン業界の流れが私の望む方向と別の方向に向かっているような印象がしたのです。
2015年も参加を見送り、2016年、20回目の節目ということもあって参加。
その時受けた印象は
業界の流れの多様化
でした。
私はある意味安心しましたが、同時にこう思いました。
私はもういいだろう
私個人としては、
これからのバルーン業界を担う若い人たちにどんどん参加していただきたい
と思い、若い人たちや経験の浅い人たちにどんどんJBAN Conventionへの参加を勧める一方、私は
数年おきに顔を出すぐらいでいいのでは?
と思うようになりました。
この2016年のファイナルパーティーで今後のJBANの方向性が示され、私はいよいよ後進へ道を譲ろうという意思を固めました。
昨年は遠い東北盛岡での開催だったこともあり、参加を見送りましたが、今年は東京での開催。参加してもよかったのですが、見送りました。2012・2013・2015年のような状態の悪さもありません。それでも見送ったのには理由があります。
もっと大切なことがある
と思ったからなのです。
今、私は給料の一部を毎月積み立てています。そのほかに、クラウドファウンディングも検討しています。何のためか…
来年春開催の作品展のための資金
なのです。
一方、最近この資金の一部を切り崩しました。理由は西日本豪雨の被災地のためなのですが…
西日本豪雨の被災地の中でもかなり気の毒な状況にあるのが、呉市の子どもたちなのです。
呉市から目と鼻の先にある広島市。通常なら最短30分で行き来できます。ところが…
JR呉線と広島呉道路が土石流で寸断され、中間にはこの西日本豪雨最大の被災地の一つである小屋浦と天応があり、連日2~3時間かかるという状態。早く行こうとすると江田島へ回って船を使うか東広島市を遠回りするかしかない状況になっています。
加えて犠牲者が多数出て、一時は全域が断水…花火大会をはじめとしたありとあらゆるイベントや夏の楽しみが奪われ、子どもたちの笑顔がなくなっている状態。
私は呉市在住の複数の方から
子どもたちの笑顔が消えている
という訴えを受けました。ましてや呉市は
幾度となく足を運んだ場所。
私は
自分でできることは何か
を考え、実行しました。
既に積極的にボランティアイベントに参加しています。
今後は今秋(10月下旬or11月上旬)に呉市某所にてその地域の保育園児・幼稚園児全員参加した約800個のバルーンリリースを計画しています。
それだけではありません。来年春の作品展では合計約1000個のスパークバルーンシャワー、それに続くエクストラステージ(北広島町大朝で2019年4月29日開催予定)では約1000個のバルーンリリースを計画しています。
それによってもたらされるものは何か…
無数の笑顔の華が花開く、いつまでも忘れることのない心に響く瞬間
なのです。
私が生命を吹き込んだ風船たちが、多くの人を元気づけているという事実
があるのです。
そのような感動の瞬間を少しでも多く創り出すために、より多くの資金と労力を費やしたい
のです。
JBAN Conventionでは、
一年に一度出現する日本で最もハッピーな空間
を何度も味わってきました。
旧Y’s Dreamを立ち上げたのも、
風船に接することによってもたらされる喜び、幸せ、うれしさ、楽しさ、華やかさというものを多くの人に広げたい
という想いからでした。
経験の浅い人たちは、どんどんJBAN Conventionなどに足を運んでいただきたいです。
他方私は、もう十分に味わいつくしたので、ある意味「もういい」です。数年に1回、思い出したかのように顔を出す程度で十分です。
JBAN Conventionに参加するためには、10万近いお金が必要です。そのお金を今本当に私が生命を吹き込む風船を必要とする人たちのために使いたいので、私は今年もJBAN Conventionは欠場しました。