究極の感動の瞬間って

いったいなんだろうか…
昨日私は、とあるお宅のホームパーティーに呼ばれ、そこでバルーンショーをしてきました。
最後に用意したのは
くす玉バルーン
最初は子供たち全員、耳をふさいでいました
しかし、
はじける瞬間
そして、はじけた後の表情
最高でした
子供たちの最高の表情…
私も感動しました。
と同時に、忘れかけていた何かを
取り戻したような気持になりました。
そもそも私は
1997年1月に日本で初めて行われた
本格的バルーンパーティーに
参加しました。
この時、私は究極といってもいい感動を味わいました。
遠い昔から風船は好きでした
しかし、私は昔(それこそ自閉症=障碍児)だったころ、
風船が上から降ってくる光景に恐怖を感じていました
それが一転、最高の興奮と感動を感じるようになってしまいました。
時期的には幼稚園時代のことではなかったでしょうか…
それ以降、私は風船が好きでした
サラリーマン時代、何も趣味がなく、唯一の趣味がギャンブルという状態の時期がありました。競馬とパチンコが多かったのですが、競艇や競輪もやっていました。競輪と競艇は訳が分からず、すぐにやめましたが…当時はパチンコが一番多かったですね。競艇は最近になってスタート返還欠場ルールに関心を覚え、競艇場の近くに移り住んだこともあり、時々しますが、ほかはやめました…競輪のわけのわからない「ライン」、競馬は血統が複雑化、そしてパチンコは…
パチンコにはまった私を見て、当時付き合っていた彼女は愛想を尽かしました…
そのような状態で見つけたのが「エミリーズバルーンアートビジネススクール」。
私はとりあえず参加しました。
その後、いろいろあって風船を仕事にしました。
しかし13年前、初めてバルーンドロップを成功させたときのあの何とも言い難い快感、
あれはいまだに忘れられません。
それから私は
数多くのバルーン演出を作り上げてきました

しかし一番忘れられないのは
2007年1月に北海道・夕張に送ったスパークバルーン
あのバルーン、実はブライダルフェアの予備を再利用したものでした。
前年の2006年1月、九州は福岡県八女郡上陽町の成人式に呼ばれました。
なぜ私が呼ばれたのか…理由は簡単で、「最後の成人式、ぜひやりたい」ということでした。
とても素晴らしい、感動的な瞬間を演出できました。

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しかし翌年は呼ばれませんでした…2006年10月、上陽町は八女市に編入合併されたのでした。
当時夕張市は、成人式ができない…という状態でした。企業でいう「破産」状態でした。
私は余りもののスパークバルーンを膨らませて、宅急便で夕張に出しました。
予備バルーン、しばらくブライダルフェアが先だったこともあり、処分するぐらいなら、夕張の皆さんに役立てていただこう、と思い、送ったのです。
当時はテレビでも取り上げられ、一時は話題になったくらいでした。
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私もとてもうれしかったのは今でも覚えています。
今、倉庫になっている部屋から、当時のお礼の手紙を引っ張ってきました…
「最高のプレゼントでした」とありました。
この手紙を開封したとき、私は余りにもうれしくなり、思わず自分で自分のために「くす玉バルーン(これ自体別のブライダルフェアの予備だったが)」を作ってしまったことを思い出しました。それだけ感動したのです。
私が目指していたもの…
それは「風船で一人でも多くの人を幸せにしていきたい」
といったものでした。
その理念を忘れずにやってきたつもりだったのですが…
どこかに忘れ去ってしまっていたのかもしれません。
一度すべてを無にする必要があったのでしょう。
そしてもう一度始めるのなら
その理念を忘れないようにしなければいけません。
風船は数少ない
究極の感動の瞬間を作れる道具です
その道具を用いて
私は究極の感動の瞬間を作り上げてきました
究極の感動の瞬間を作り上げる
アーティストが
金、マネーだけに走ると
何もないスカスカばかりになってしまいます。
結局スカスカになって
私はボロボロになってしまいました。
ここ数日、私は
忘れていた何かを
取り戻す日々が続きました…
私は本当に作りたかったもの
それは
究極の感動の瞬間
だったのです。
あるところまでは
達成できたのですが
ゴールは果てしなく遠いところでした
というか
ゴールのない戦いを私は
していたのかもしれません。

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