あれから4年…まさかこうなるとは…

こんにちは。

2013年8月26日の投稿「最後は自分らしく」

2013年8月24日の投稿「恥ずかしい…でも今だからアップできる」

8月26日の投稿では「もう悔いはない」と、8月24日の投稿では「もう全身に稲妻が走る爽快感を味わうこともない…」という言葉があります。

この時点で私は、風船から足を洗うつもりでした。もう2度と風船を膨らませることはない、と考えていました。

この投稿の数日後、私は南九州に車を走らせていました。鹿児島の先祖に報告するのと、宮崎の知り合いのバルーン業者さんに機材を売却するためです。その際、霧島神宮の賽銭箱に、旧Y’s Dreamの看板を一切合切投入してきました。

2012年5月に鬱を発症、9月ごろに少し落ち着き、再開の方向性を一度は模索しました。同じ年の11月には、私しかなしえないようなバルーン演出を手掛け、成功させました。

しかし、同じ年の12月ごろから、国際情勢の変化とシェールガス革命の影響などが重なり、日本国内にヘリウムガスが入ってこない「払底」が発生。これをきっかけに、前年の東日本大震災から変化しつつあったバルーンの立ち位置の方向性の変化が決定的となる一方、払底は長期化。さらに家庭の事情も重なり、「これ以上続けると深刻な事態になる」と判断、

完全引退・転進再就職

の方向に向かうことにしたのです。

そのため、私は徹底的に自分の思考を変える訓練を自分自身に課したりもしました。バルーンの経歴を隠した職務経歴書や履歴書を作成し、転職コンサルタントに相談したこともありました。ある転職コンサルタントは「13年間ホストをやっていたのと同じ」とまで言い切りました。バルーンアーティストとしての自分を「黒歴史化」することを試みたのです。(当時制作したY’s Dream作品集も、歴史の中に閉じ込めて封印したい、その一方で私が残した遺産を他の人に自由に活用してほしい、という想いから制作したものです)

ところが、「黒歴史化」は失敗しました。

2014年春、趣味としてのバルーンを細々と再開。一方で、店舗のバルーン装飾の依頼なども来るようになる。

2015年、「精神障がい・発達障がいに苦しむ人たちが社会参加するきっかけづくりにバルーンを活用する」ことを目標としたプロジェクトを立ち上げる。このプロジェクトが現在私が所属している会社に引き継がれて、今に至る。

最新の作品集タイトル

画像をクリックすると、2014年以降の作品を見ることができます。

結局、私は

本当に風船が好きで、風船を愛し、その風船に生命を吹き込むことによって自分を表現し、その生き様が多くの人を元気づけているという事実

に直面していたのです。

その私が生み出した、新たな表現手段

バルーングラフィックタイトル

これも画像をクリックするとご覧いただけるのですが、これをベースにした私の生きざまをダイジェストにして、精神障がいや発達障がいに苦しむ人たちを元気づけるために制作された本が

くまさんのげんきだま2016表紙

くまさんのげんきだま、という小冊子でした。

これはすでに多くの人に行きわたり、熊本県内のとある放課後等児童デイサービスでは、教材に使っていただいているほど、多くの人たちに夢と感動と元気を与えています。

そして今、多くの人たちに夢と感動と元気を分け与えることができています。まさに

くす玉のような存在

になっています。

私は生まれつきの自閉症を抱えています。いわゆる「アスペルガー症候群」と呼ばれる典型的な症状が出ています。加えて母親が精神疾患を抱えていて、その原因が母親が受けてきた厳しすぎる躾に原因があるとみられています。そして両親はいわゆる「過干渉」型の「毒親」でした。

私は「道に外れた親といえども、泣いて自らをむなしくして従うべき」という儒教の教えを根拠にして、自らをむなしくする努力を積み重ねてきました。しかし、その努力は実ることはなく、むしろ正反対の結果をもたらすことになりました。

何が起きたのか…「自己否定の塊」だった4年前からは想像もつきませんでした。

なぜ両親、とりわけ母親は「毒親」になってしまったのか、その原因はどこにあったのかを探求することから始まり、自分の在り方を整理するために母親の故郷である鹿児島にことあるごとに何度も足を運びました。旧Y’s Dreamの看板を置いてきたのも、霧島神宮でした。

旧Y’s Dream時代、自分で自分をほめることをめったにせず、「返還欠場」という厳しいルールを自分に課してストイックに追い込んでいました。完全主義者として、自分自身を極限まで追い込んでいました。その結果が破たんでした。

今、自己否定を捨てた私は、一転自己肯定感に満ちています。だからこそ

くす玉のような存在

を唱えることができ、実践できているのでしょう。

自分が創り上げてきたもの、自分がなしえてきたことがどれだけすごいことだったのか、一度引退して初めて知りました。あれだけどっぷり使ていた風船の世界から一度離れてみて、客観的に見て初めて自分がしてきたことのものすごさを知ることができました。

そのような経験をしているからこそ、今、多くの人たちに夢と感動と元気を与えることができるのかもしれません。

大観峰から望むくじゅう

大観峰から望むくじゅう

大観峰から望む外輪山

大観峰から望む外輪山

2013年8月、私は阿蘇の外輪山を駆け抜けて椎葉を経て霧島神宮・宮崎へ(2013年5月も阿蘇を訪れていました)。

2017年8月、またしても阿蘇を訪れました。

2013年8月

2013年8月

2013年8月

2013年8月

2017年8月

2017年8月

2017年8月

2017年8月

ちなみに画像はありませんが、この披露宴では最後のクライマックスに約250個の風船が舞い降りるスパークバルーンシャワーも行いました。すべてが一つの作品としてセットになり、多くの人を感動させることができました…が、「焼きが回っていました」。

 

 

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