なぜ、私は「くす玉がはじける瞬間」の虜になってしまったのか…
私は小さいとき、風船が怖かったらしい。本当に幼少期のことである。
そのころ私は、「くす玉がはじける瞬間」から目をそらしていたような記憶がある。
ところがちょっとしかきっかけでその虜になってしまった。
その心境について、私はよく覚えていないが、世に中には私とほとんど同じような方もいて、その方が結構前にブログに書き留めていた。このブログの記事は今でも残っているようなので、参考までにリンクを貼っておく。
私が好きな風船シチュのひとつが、「頭上から風船が舞い降りる」というものです。
これらの引用元の記事はそれこそ2006年から2009年ごろの記事です。
このころ私はバリバリの現役のバルーンアーティストでした。
Y’s Dreamは人一人が十分に生活していけるだけの利益を上げていました。
というわけで、話は1995年、21年前にさかのぼります。
このころ私はとんでもない状態でした。今なら「パワハラ」に該当する行為を上司から受け、それこそ「ギャンブル依存症」に近い状態でした。当時交際していた彼女ともその上司によって別れさせられ、挙句の果てにはとある新興宗教に走る始末でした。
そのころ目にした「エミリーズバルーンアートスクール」のチラシ。
私は最も近い日程に初級と中級のみ申し込みました。後々役に立つかもしれない、と思ったからです。これが20年前、1996年のことでした。
さらに翌年1997年1月、私は1回目のJBAN Conventionに参加しました。あまりのすごさに感動しました。この感動、風船に携わることの素晴らしさを社会に還元したい、という想いからY’s Dreamはスタートしたのです。
以来2012年に鬱を発症し、ヘリウムガス払底が追い打ちをかけて活動停止に至るまで、Y’s Dreamは続きました。
その中で私は幾多の感動の瞬間を創りだし、その多くが一人ひとりの心の中に刻まれ、中には10年以上たった今でも「忘れられない瞬間」として生き続けている人がいるという、普通ではなしえないようなことをやり遂げていたのです。
その中には自分自身が天にも舞い上がるほどの快感を覚えるほどの感動の瞬間を創り上げたこともありました。もちろんその瞬間に接した人も多くが感動し、中にはそれこそ今でも鮮明に覚えている人がいるそうです。
2013年、私は引退を決断しました。
震災をきっかけに人々の心の在り方が変化し、ヘリウムガスの国内流通が数か月にわたり停止し、結果バルーンの立ち位置が大きく変化して、その流れに私はついていけないと判断したからです。
それから2015年までの記録はこのブログにある通りです。
2015年の夏ぐらいから、私しかなしえないような感動の空間を創り上げる局面が続きました。
山の中の廃校の講堂でのミュージカルでの空間演出、バルーンがテーマの結婚式、そして障がい者と社会をつなぐイベントでの空間演出…
「障がい者と社会をつなぐイベントでの空間演出」の結果、私はそのイベントを主催した会社に入らさせていただくことになった。かねてから障がい者雇用と就労移行支援の問題に取り組みたいと考えていた私は、この問題に今真剣に取り組んでいる。
その中でバルーンを活用しているのだが、今年の秋には再びあのイベントが開催されるという。当然バルーンは組み込まれている。昨年できなかった「自動スパークバルーンシャワー」も今年はぜひやるつもりだ。今までになかった感動を生み出したいと私は考えているし、毎年新たな演出を取り入れ、感動のクライマックスとし、名物に育て上げたいという思いがある。その中で障がいのある人たちにも制作に加わってもらい、感動の瞬間を一緒に生み出すことによって、自らの自信に結び付けたいという思いがある。
同時に今回私は、このイベントに向けて、自らがバルーンで実践してきたことを1冊の本(10ページ程度)にしたいと考えている。このブログの記事も一部組み込むつもりです。
私が生命を吹き込み風船が一人でも多くの人の元気と勇気の種になってほしい
…という想いで、今年は取り組みます。
これはこの7月に、これまであった動画集を再アレンジして制作したものです(2017年6月に入れ替え)。