キセキのキセキ…「ふうせんまつり」を振り返る 第3章 暗礁そして再スタート

第2章より続く

実行委員会では、厳しい意見が続出しました。

「このようなコンセプトでは集客が厳しい」「2日間もやるのはどうか」…

とりあえずの顔合わせということもあって、「これから練り上げていこう」ということにはなったのですが、煮詰まり状態となり、私は自分一人ではしんどくなってしまっていました。しかし、この言葉が実行委員のグループチャットに書いてありました。

「実行委員となった方々は私を含め、バルーンの持つ魅力や梶川さんのお人柄や作品の魅力に十分に気付いている集団です」

このような発言が出て、ほかの実行委員の皆さんからもそれを支持していただいている…今までやってきたことを認めていただいて、それを踏まえて最高のものをつくりあげようとしているチームができつつあるということを私は強く自覚しました。そして、強くこう思いました。

彼女たちのためにも、この「ふうせんまつり」を企画倒れ、失敗に終わらせるわけにはいかない。何としても成功させなければならない

私はこの発言や、グループチャット内で繰り広げられたやり取りを見て、

この方々たちを信頼して、このチームにすべてを任せてみよう

という考えに至りました。

それまで私は、人に任せる、ということをあまりしない人でした。自分が行うことは自分が仕切る、という考えでした。その結果、考えが合わない人は私のもとからどんどん去っていきました。かつてのY’s Dreamが行き詰まってしまったのも、この私自身の考えが影響していたのかもしれません。

今振り返ってみると、この判断が成功の最大の要因のような気がします。そして、私はこう考えました。

私ができることは「ふうせんまつり」が失敗に終わる要素を作らないようにすることしかない

風船以外に私ができることはそれしかない

「ふうせんまつり」を成功させるために私ができることは何かを最優先に考えるようになりました。

そんな中、大ピンチが…

私が「ふうせんまつり」を企画したことが、当時勤務していた会社で問題視されたのです。

さらに悪いことに、この時期、会社は経営計画の見直しを進めているところでした。会社は私をリストラすることを決断、「ふうせんまつり」は中止も視野に入れた大幅な見直しを余儀なくされることになりました。

私は中止も考えました。しかし、

「実行委員となった方々は私を含め、バルーンの持つ魅力や梶川さんのお人柄や作品の魅力に十分に気付いている集団です」

という考えに賛同した人たちが、実行委員として残っていました。私は

延期(4月27・28日開催を6月2日に)・企画内容大幅見直し・日程の圧縮(2日間を1日に)

という条件を受け入れ、当初考えていた全額自費開催も見直しを受け入れました。そうして2月17日、「ふうせんまつり」は「~ゆめの国の宝さがし~」というサブタイトルが付いて、再スタートを切ることになりました。

今にして思えば、この決断が成功につながった、と考えています。確かにこの段階では、苦渋の決断でした。しかし、この決断以外にあった選択肢は、「開催中止」しかありませんでした。仮に開催中止、となっていれば、私は元も子も失うことになり、実行委員をはじめ、「ふうせんまつり」に期待していたすべての人たちの想いを裏切ることになります。そして私は何も残すことができず、すべてを失い、引きこもりの中年ニートになってしまっていたでしょうし、自暴自棄になっていたかもしれません。

5月下旬に首都圏では長年引きこもっていた(中学卒業から50代に至るまで35年余りも!)男が大量殺人を犯したうえで自らも自害したり、中年ニートになってしまった息子を事務次官という社会的地位の高い職業まで勤め上げた元官僚が刺殺してしまったりという事件が起きました。私は「風船がなければ、風船に携わることがなければ、自ら命を絶っていたか、塀の中に半永久的に入っているかのいずれかになっていた」と事あるごとに述べています。これらの中年ニート、引きこもりの人たちは60万人程度いるとされています。それこそ鹿児島市や船橋市の人口に匹敵する数です。彼ら、彼女らを生み出したのはその親に原因があるケースが多く、たいてい背後に厳しすぎる躾が絡んでおり、その親もまた厳しい躾を受けた、加えて厳しい躾は昭和初期から第二次世界大戦をはさんで高度成長期に至るまでの社会の要請にかかわるところが大きいとまで言われています。いわゆる「毒親の世代間連鎖」であり、私の両親及び祖父母もそうでした。

これを断ち切って、自己肯定感を高め、達成感を味わせるのが今の子どもたちに必要と考え、「ふうせんまつり」にはそのような要素を多く盛り込むような企画を用意していました。「くす玉のひもを引っ張るときの気持ちよさ」を体感していただくイベントとして企画し、単なる作品展にしないつもりでいました。だからこそ、出店・出演を予定していた人たちの大半は大幅見直しを受け入れ、趣旨に賛同してくださったのかもしれません。

第4章に続く

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