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最後は自分らしく

こんばんは。二次会に参加して、最終電車で帰ってきました。

最後は自分らしい作品で…幕引きとなりました。
今までやってきた作品を組み合わせ、そして新たな挑戦に挑み…
自分の中ではイメージ通りにできなかった…が結果は最高のものとなった。
まさに私のバルーンアーティスト人生を象徴する作品となった。
本当に最後は自分らしい作品で終えることができました。
悔いは…
ない、と言ったらうそになります。
でも、
私は満足し、納得しています。
やれるだけのことをやったのですから。
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恥ずかしい…でも今だからアップする

こんにちは。
明日、明後日、そして日曜日の朝(昼前)まで雨のようです…
日曜日は昼から午後なので、そこは大丈夫なような感じがしますが…高知と九州中部が悪い予報。
今日はここ数日の猛暑でついに夏バテしてしまいました…
さて、今だからアップできる動画
YAPPONさんの動画を拝借いたしました。

これ、司会者さんは「大成功間違いなし」とおっしゃっておりますが…実は
失敗
です…
そもそも成功していたら、オフィシャル動画集レコード入りです。
失敗すると…
とにかくすぐに謝る
そしてペナルティーが科される
ギャラ減額は当たり前
場合によってはギャラ没収になることも…(これを「返還欠場」という)
しかしもうこのように失敗しても目の前が真っ暗になるような仕事は…
もうしなくていい
その代り…
成功したときの
全身に稲妻が走るほどの爽快感
を味わうことももうないが…

風船の数年後

おはようございます。

バルーン業界の将来、三年後、五年後、十年後…いったいどうなっているのだろうか。

未来のことなど本当にわからない。

ただ、歴史を振り返ってみれば何か見えてくるものがあるに違いない。

1983年、東京ディズニーランドオープン。
1984年、当時日本で最大のバルーンリリースが行われた。30万個以上だったという。とあるラーメンの宣伝で行われたという。
1986年、東京南麻布、仙台坂下に日本初のバルーンショップ「タキシードベア」がオープン。この店は西麻布に拡張移転し現存する。
1988年、東京ディズニーランド5周年で大規模なバルーンリリース

このころはバブル経済絶頂期、とにかく式典といえば大規模なバルーンリリースが当たり前の時代だった。
1991年ごろ、「ウミガメショック」発生。バルーンリリースが急速に減る。
1994年、大阪梅田に西日本初のバルーンショップ「ウィンズバルーン」オープン。現在はバルーンスクールを主体に活動している。
1994年、広島アジア大会でエコ風船の大量リリース。
1995年、エミリーズバルーンアートビジネススクール始まる。
1996年4月、私もそのエミリーズバルーンアートビジネススクールに参加。
1997年1月、JBAN Conventionの第1回開催。(私も参加)
1997年?月、テレビチャンピョンでバルーンアート選手権開催

このころは日本における本格的バルーンビジネスの勃興期だったに違いない。
このころから今日も活躍する世界的なバルーンアーティストが出てくるようになる。

balart1501998年ごろの作品

2000年ごろになると、日本におけるバルーンアートは成長期に入る。

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2004年のウェディングメインテーブル


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2004年のイベント会場デコレーション
このころ、私は演出も装飾も幅広く手掛けていた。
大口取引先も増え、たくさんの仕事をいただき、数多くの風船を膨らませていた。
これらの作品はその一例である。

ツイスターズという、ひねる風船を専門にした大会の第1回が行われたのは2004年。
このころから趣味で風船をひねる方が増え、バルーンアートが趣味として一般化するようになる。

2005年、仕事が増えすぎ、私は一時うつ状態になった。
悩んだ末、バルーン演出に経営資源を集中させる方策に出た。
これで私は回復した。

Dsc003502006年1月
yubarigienballoon52007年1月
DSC02653 2008年10月
私はとにかくたくさんの風船に生命を吹き込んだ
いつまでも心に残る最高の瞬間を数多くつくりあげた

このころからバルーンドレスが流行り始める
ツイスターズは2007年新潟、2008年には地元広島で開催された。
バルーンアートはもはや一般の趣味として定着し、バルーンビジネスは成熟期を迎えた。

この時期はバルーン業界全体にとっても私にとっても、花よ蝶よの時代だったのかもしれない。
その流れが2011年3月11日を境に変化を始める。
東日本大震災

まず変化が起きたのがブライダル業界。
派手な演出が減る傾向に。絆を重んじたアットホームな結婚式が増えていった。
そして徐々にヘリウムガスの需給がタイトになり、2012年11月には払底を起こしてしまう…

ヘリウムガスの需給は一時期の払底を脱したが、まだまだ不足している。
東京ディズニーリゾートでも2012年11月20日を最後にバルーンの販売が行われていない。
明らかに減ったのが結婚式でのバルーンリリース。

一方では今年に入り、100円ショップでヘリウムガス入りバルーンが販売されている。

私は何度も言っているように、
ただ風船を膨らませるだけの人はもはやいらない
厳しい時代がやってきた、と痛感している。

かくいう私は長年の無理がたたり、鬱を発症。その後一時は復帰したものの、諸情勢がどんどん悪化、とても続けられない、と判断し、引退を決断した。

この流れを通して、私は予想するのは、次の通り。

バルーンのすそ野はどんどん広がる。趣味としてバルーンをする人が老若男女増える

私がやってきたこと

おはようございます。

先日、最後の出張に行ってきました。

あとは地元広島での仕事だけです…あと宅配も。

正直言います。

私は本当にこの仕事を心から愛していました。

自分の好きなことをして、人を幸せにできる…

そして自分もお客様もハッピーになる…

私がしてきたことは

ただ風船を膨らませることではなく

風船に生命を吹き込むことでした。

そしていつまでも、時によっては生涯心に残る感動をもたらすのです。

そのために私はひたすら挑戦を続けました。

一体いくつの風船に私は生命を吹き込んできたのでしょうか…

それだけではありません。

全く道のないところに道を作るようなことをしてきたのです。

道なきところに道を作って、気が付けばそこにはたくさんの後輩たちが歩んでいました。

私は大したことをしたつもりは全くありません。

気が付けばそこに大きなものがあったのでした。

その私は、もう限界を悟りました。

バルーン演出の世界、正直言ってある意味職人芸の世界です。

当日の天気・気温・湿度、会場内の構造などによって演出内容や会場動線など変わってきます。

10年以上の間に何千ものバルーン演出をやってきましたが、一つとて同じものはありません。

それら一つ一つがすべて手作りなのです。

体力的にも精神的にももう限界です。

はっきり言います。

今やめても悔いが残らないから

私は引退を決断したのです。

私はやり残したことは正直言ってありません。

もっとやりたいところがあったのは正直言ってあります。

しかしこれ以上やろうとしても、自分の力ではどうにもならないところまで来てしまいました。

世の中はどんどん変化します。

結婚式もイベントの在り方もどんどん変化します。

今や3年ひと昔の時代です。

時代が再び求めるようになれば、復活するかもしれません。

でも一つだけ確かなのは

私はもう限界

です。

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私が一番やりたかったことって一体

何だったのだろうか
こんにちは。
今、ある方から電話がありました。
…友達の結婚式でバルーンリリースを断念された…
…自分の結婚式でスパークバルーンシャワーがやりたい…
…ヘリウムガスの現状はいったいどうなっているのか…
私がバルーンの仕事の中で一番やりたかったことはいったいなんだったのか
この動画にやっぱり凝縮されているのかな…と思う

私がつくりあげた瞬間…
今も電話がかかってきた。
ぜひお願いしたい…
それにしてもなぜ私は
「最高の感動的な瞬間を作り出す」
という仕事をするようになったのか…
スパークバルーン…
当初私はこれを「くす玉バルーン」と呼んでいた。
「くす玉」=割る、という連想から、全然当時は売れなかった。
まだ20世紀の話である。
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もう13年も前のメインテーブルの画像。スパークバルーンを組み込んでいるが、自動ではない。
21世紀に変わったころあたりから、定番商品になり始めた。
以来13年、あまたの感動的な瞬間を彩ってきた。

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今でこそコモディティ化しているが、スパークバルーンの宅配を最初に始めたのはこの私である。
というより、定番になってしまった。
でも全く何もないところから市場を作ったということだけは…
私の人生の中で一番の大きな足跡なのかもしれない。
だからこのようなことが書けるのかも…
というか、私しか書けない。
このようなことを自分の口で言えるのは、日本に何千人もいるバルーンデコレーターのうち、ほんの一握りの人たちだろう。
裏を返せば、それだけ自分がやってきたことは大きかったのである。
私は自分のやりたかったことをこの13年間やってきただけである。
でもそれが大きな実績に…
なっていた。
今私は、ドリームバルーンやスパークバルーンシャワー、自動スパークバルーンといった現場での瞬間勝負の仕事は1日1組限定にしている。このような現場での瞬間勝負はものすごいエネルギーとパワーをその瞬間に注がなければいけない。しかし成功したときの感動は…
計り知れない
一日に7組もこの演出をしたことがあった。卓上バルーンサービスやバルーンリリースも加えると、合計12件を1人でやったことがある。
その時もものすごい充実感だった…が
長年の無理は確実に私をむしばんでいた
そして昨年の今頃…倒れた。
昨年末ヘリウムガスが払底し、バルーン演出は難しくなった。
何組もの新郎新婦様がバルーンリリースを断念された。
私は一番やりたい仕事ができなくなった。
廃業・転進を真剣に考えるまでになった。
ヘリウムガスの需要が回復しつつあり、景気もアベノミクスで上向き傾向にある今だが、
これで需要が回復するか…
いつまでもしがみつくわけにはいかない…が
私には私しかできない仕事があるのもまた事実
はたしてそれを捨てていいのか…

最高の瞬間を生み出すための発想の転換

こんにちは。

今日はピーカン、青空です。

最近までならバルーンリリース日和でした…が

昨今のヘリウムガス事情、さらにブライダル事情の変化で

少なくなってしまいました…

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上から見るとどのような仕掛けで風船が舞いあがっているのかわかりません

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下はこのようになっているのです。仕掛けを引っ張ると舞い上がるのです。

単なるバルーンリリースもこのように感動的な演出にできるのです。

先日の大分でもそうでしたが、

予想だにしない風船の動きが感動を呼ぶ

というのを実感しました。

まさかあんなところではじけるとは…

現場のウェディングプランナーさんも感動しきりでした。

ここ数年大ヒット商品だった

ドロップアンドフライ

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何だ風船をプールに投げるだけか
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うわー舞い上がったぞ…
見たこともない演出が感動を呼ぶのです。

バルーンリリースもスパークバルーンもありきたりの演出となった今

さらなる感動を呼ぶためには、見たことがない演出が必要なのです。

そのためには、新しいことを考えることと、既存の演出から発想を広げることと、両方必要なのです。

 

想像力を膨らませることが創造につながるのです。

現場のウェディングプランナーが新郎新婦様に教えられているようでは、いけませんね。

広島でウェディングプランナーさんが与えられた演出を生かして、それらを引き立てる方法をうまく考えている結婚式場は、

ここぐらいでしょう。ここは本当に現場で働くウェディングプランナーさんが研究熱心です。私も感心しています。

あとは…会場のウェディングプランナーさんが私に信頼を寄せている状態でした。

それを上層部が「利用」してしまい、結局私は壊れたのです。

私がバルーン演出を究めようとした理由

それは…

成功したときの感動が計り知れない

からでした。

ここから風船を舞い上がらせたら

どんなに感動的だろうか…

とか

ただ新郎新婦様が風船から登場するだけでは面白くない

新郎新婦様が風船に包まれて登場したら

どんなに華やかだろうか…

とか

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単なるドリームバルーンだけではない演出

 

 

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デコレーションと見せかけておいて、実際にはスパークする仕掛けとか…

 

 

私は一瞬のためにすべてを注いできました。

最高の一瞬のために…

その最高の瞬間が

生涯心に残る感動になる…

そのためにいろいろなことを考え、形にしてきました。

その歩みは10年以上にわたります…

風船をただただ商材として扱う人たちに

この思いは伝わるのか?

私の風船に対する思いを理解していただいている人たちがいるから、今日までやってこれた。

これこそ感謝すべきことです。

残念なことに私の思いを「利用する」人がいた…

金を生み出す木として…

自分にしかなしえない仕事って一体…

何だろうか…

↓の記事とセットでご覧いただくことをお勧めします。

今日はゴールデンウィーク最終日です。交通機関が混雑する日です。

肝心のはじける瞬間を撮影できませんでしたので、いくつか絶景をご覧ください。

DSCF1238九重連山

DSCF1240はるかかなたに臨む阿蘇五岳

DSCF1241阿蘇外輪山

DSCF1242阿蘇外輪山

DSCF1243祖母・傾山、山の向こうは高千穂

DSCF1245長湯温泉。今回はゴールデンウィークさなか、ということもあって宿が取れず、近くの1台も車のいない駐車場で車中泊した。
DSCF1254明礬温泉。

DSCF1253別府湾
DSCF1257草原に沈む夕日

上記は5月4・5の両日に撮影したのだが、何かお気づきの点があるかもしれない。

昨年11月の画像

つまり、私が仕事をしてきたのは、

大分

でした…

DSCF1247パート1

DSCF1252パート2

やってきたことは同じ…1日2回。

しかし2回目の画像に注目。

1回目の画像にない、白い大きな物体が下の方にある。

これ、当初予定になく、急きょ追加したスパークバルーンシャワー。

1回目ためしにやってみたところ、アトリウムの一部にしか風船が降らなかった…アトリウム全体に風船が舞う光景を作りたい…という話になり、事前に会場の写真をホームページでみていたこともあって、「こういうこともあろうか」と思い、道具を持参していた。しかし使うかどうかわからず、使わなかった場合無駄になることもあって、道具だけの状態で大分に来た。何しろヘリウムガス不足の現状がある。出来るなら使わずにいたかった。

結局「やってみよう」ということになって、追加となった。

2回目はアトリウム全体に無数の風船が舞う光景が展開されたのは言うまでもない。

(どなたか写真ください…あせる

大分

で勘のいい方はお気づきだろう。

ヘリウムガス払底で休業に追い込まれる前の、

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…これも大分県内某所だったのである。

大分での仕事は、無事成功するともれなく温泉がついてくる…

のはいいとして…

これらの作品、私以外の人は作れるのだろうか…

↓の記事のように、感動の瞬間、それがすなわち私の作品であり、その瞬間を自らの手で作り出せるのは自分しかいないのかもしれない…

今、それが危機に立たされている。
世界情勢の変化とその結果によるヘリウムガス不足…一時は払底状態になった。
そもそも今回は最初、宅配だけの予定だった。

ところが地元広島で相次いで日本国内でもめったに見られない本物のバルーンアートの作品が展示された。

私は「負けてはいられない」という気持ちになった。

私にできること、それは最高の瞬間を風船で作り上げること…

私は当初宅配で済ませる予定だった大分のクライアント様に連絡し、出向く旨告げた。

結果大成功になった…「おかげさまで助かりました」

ある意味パセーラと家泉あづささんにこの大分のクライアント様は救われたのかもしれない。これらの作品を見て刺激を受けなければ私は大分に向かうことはなかっただろう。
半年前、「もうだめかもしれない、今回が最後になるかもしれない」と私は思っていた。

正直言って今の方が半年前より状況は厳しい。

しかし「もうダメ…」とは今は思っていない。

正直言って今回、当初予定になかったスパークバルーンシャワーを敢行したのも、技術維持の目的があった。

技術は使ってなんぼ。使わなければいつかは忘れる。そして

絵に描いた餅

になってしまう。

そうならないためにも、実践が必要だった。

いつでも最高の瞬間を作り出せるように…

体が覚えていた。

スパークバルーンシャワーも、

自動スパークバルーンも

そして

成功したときの何とも言えない感動も…

おかげさまで素晴らしい連休になった。

予算オーバーになって財政が厳しいが…

自分にしかなしえない仕事って…

いったいなんだろうか…
昨日5月5日こどもの日、とある県の県庁所在地にあるアトリウムホールでの模擬人前結婚式でスパークバルーンシャワーをしてきた。
瞬間の写真や動画は撮影を忘れた…
が、いたるところから感動の声多数。
「見たことない…」
10年前のやはりゴールデンウィークだったか、この時は広大な自然公園でのスパークバルーンリリース&バルーンリリースで、合計約1100個もの風船を舞い上がらせたとき、
「鳥肌が立つほど感動した…」
という声を複数聞いた。
今やスパークバルーンは定番商品化してしまった…が、自分にしかなしえない仕事がある、というのは本当に素晴らしいことなのかもしれない。

この動画を見ていただいたらわかるか、と思うが、例外なくどよめきに似た大歓声が響いている。
あまりの感動に声を上げている…
私はこの瞬間を自らの手で作り上げているのだが、自ら作り上げた瞬間が成功したときの自分の中に走る感情と言ったら、なんといっていいのだろうか…
………
エクスタシー…
………
とにかく何とも言えない

それぞれの得意分野を生かす

おはようございます。
早朝のパセーラのパブリックスペース(リーガロイヤルホテル広島のフロントにつながっているので、出入り可能)に入って、いろいろ調べてみましたが、やはり広島のバルーンアーティストの作品ではないと判明しました。
これが一昔前だったら、悔しさのあまり…というところでしょうが、今はそういうことはありません。
むしろバルーン業界の幅が大きく広がったのが今の実態です。
関西の方はお気づきかと思いますが、昨年の「ガスてん」。毎年大阪ガスが主催して、関西各地で都市ガスを使ったPRを行うイベントですが、これを手掛けたのは実は広島の「じゃっきい」さんでした。聞いた話では、ものすごい仕事だったとか…膨らませる風船の数が半端ではなかったそうです。
一方私はそのころ、静岡→大分→東京と、まるでボートレーサーのような動きをしていました(ボートレーサーは地元の競艇場で仕事(=レース)をするのは正月とお盆ぐらい)。大がかりなブライダルでのバルーン演出のご依頼があちこちから入っていたのです。
このころは心身の状態が安定しており、ヘリウムガスの状態も悪くありませんでした。復帰を優先して考えていたころです。

全部私が手がけた仕事です。すべて2008年以降の仕事で、2010年ごろの仕事が特に多いです。実質休業状態になった2012年6月以降の仕事も含まれています。
自分は「成功させて当然」という極度のプレッシャーと常に戦っていました…大したことはしてない、と思っていたのですが、気がつくとトップリーダーの位置に…

こちらは2001年から2003年にかけての仕事。
究極の最高の瞬間を追いかけていたころの動画集です。
結局、地元という枠にとらわれてしまうと、いい仕事ができなくなってしまうのかもしれません。
かつて、広島の某バルーン業者の方は自らを「何でも屋」と揶揄していました。一方、バルーンデコレーションの分野は非常に細分化され、結果業界全体が大きくなりました。
その人その人の個性が作品の一つ一つに出てきています。
私が全面廃業ではなく、縮小継続を選択したのも、「私が作り出す瞬間で最高の感動を提供したい」というニーズがあるからなのです。
それがヘリウムガス問題でできなくなっている、というのが現時点での最大の問題なのです。

どこへ行く、バルーン業界

こんにちは。

寒い、雨は降る…

↓の記事のバルーンデコレーション、おそらく今年に入ってから日本最大級でしょう。

というより、ここ数年なかった超大規模のバルーンデコレーションです。

それがここ最近停滞気味だった広島で…東京などでもここまでの規模はめったにないはずです。

全国的に見ても1年に一度あるかないかでしょう。

このようなバルーンデコレーションが当たり前のように全国各地で繰り広げられたら、それこそバルーン業界はもっと発展していたに違いありません…何しろ広島でこのようなバルーンデコレーションを見ること自体数年に一度ですから…

一方最近はバルーンギフトとツイスティングバルーンが主流になっています。

ここ数年のバルーンの分野の広がりは目を見張るものがありました。

そしてバルーン人口も大きく増えました。

バルーンの種類もはるかに増えました。

業界全体は大きく広がりました。

他方で、競争も激化…

とある方がおっしゃっていました。

これから必要なのは、

夢とサービスを売るセールスマン…

なるほど…

ニーズをつかんで大きく成長したところもあります。

私がこれからやるべきことは

本当にたくさんの人に

風船の楽しさ、華やかさ、うれしさ、喜びというものを

多くの人に伝えていくこと

だろうと思っています…

そのために、私は10年以上の長きにわたって

バルーンアーティストとしての活動を続けてきました。

さらに私は

スパークバルーンの前身

くす玉バルーンの宅配を全国で初めて行ったという実績があります。

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この写真、実は2000年の最初のころの写真なのです。

すでに2000年の4月には制作・発送した履歴がありました。

最初の宅配くす玉バルーンは湯治当時作品展を開いていて滞在していた大分県由布院から発送しました。

以来数多くのくす玉バルーンを制作しました。

当時婚礼では「割るなんて縁起が悪い」といわれていました。ところがプロが会場に出向いて制作した同様のバルーンが増えるにつれて一般化し、それぞれの業者さんが「スパークバルーン」と呼ぶようにしているのに倣い、私も改称しました。

しかし、全国各地にこのようなバルーンを作って届けるようにしたのは、私が最初なのは間違いないです。

それがどんどん広がり、今ではキャンドルサービスと並ぶ定番になりました。

くす玉バルーンという名前を付けたのも私が最初です。

もともと私は

くす玉のはじける瞬間がとにかく好き

何とも言い難い瞬間がこの上なく好き

でこの世界に入りました。

いろいろな形で表現すべく、様々なことに挑戦しました。

デコレーションをやってみたり、

ツイストバルーンをやってみたり…

当時の「たけしの誰でもピカソ」に出演したこともありました…

もう15年近く昔のことです。

当時の作品の写真を探したのですが、ない…全部消去してしまっていました。

しかし、私が一番やりたかったのは

バルーン演出でした…

1999年1月、某ライブハウスで500個のバルーンドロップを初めて成功させたとき…

そして2004年2月、某ドーム型の結婚式場で約300個のスパークバルーンシャワーを成功させたとき…

何とも言えない最高の気持ちになった思い出があります。

そして私は気がつくと

トップレベルの一人になっていました…

自分のブログ以外でも

たくさんの方のブログに

私の作った作品たちが

掲載されています…

私の手掛けた作品が

いつまでも心の中に残る…

本当にうれしいことこの上ないです…

しかし私はある種の

燃え尽きた感じが

自分の中にあります。

ヘリウムガスの供給は少しずつ回復してはいますが

先行き不透明のままです。

ヘリウムガスの供給が回復すればまだまだやりたいことは残っています。

しかし、ヘリウムガスが今の現状のままでは、できることは本当に限られています。

私は潮時なのかもしれません。

私がこれから本当に風船が好きなものとして

すべきことは…

風船を通してその喜びを伝えていくこと

であることは間違いありません。

私はバルーンアーティストとして道を作ってきました。

今その道はたくさんの後輩たちが通っています

私は近いうちに引退することになるかもしれません。

しかし私が単なる風船好きからバルーンアーティストとして歩み、築き上げた実績は

生涯残ります。

反社会的行為でもしない限り、色あせることはないでしょう。

私に残されたバルーンアーティストとしての仕事、それは

次の世代に伝えること

なのかもしれません。

そして、

風船の楽しさ、華やかさ、うれしさといったものを伝えることは

私の生涯の仕事になることは間違いありません。

それがどのような形になるかは、まだわかりません。

プロとしては引退し、評論家になるかもわかりません。

どのような形で風船の楽しさを伝えていくか…

心理学、色彩論、芸術論…

勉強しなければいけないことはたくさんあります。

正直言って、私は手先が不器用です。

体力も運動神経もコミュニケーション能力も人より劣ります。

それでもここまでやってこれたのです。

ただ風船が好き

それだけでここまでやってきたのです。

好き、という力は

本当に大きなものだ

と思います。

あるバルーンデコレーターさんから

「あなたって、風船が恋人?」

といわれました。

ある意味そうかもしれません。

そうでなければ、当の昔に挫折していたはずです。

バルーン業界の歴史が少し違ったものになっていたかもしれません。

どのような形で伝えていくか…

 

これから模索することにします。