風船・バルーン」カテゴリーアーカイブ

私は「イリュージョニスト」なのかもしれない

こんばんは。

今現在進行形で、私は無数の風船たちに生命を吹き込んでいます。

そして、今日は休みだった(2017年11月7日)のですが、

とあるところで、

またしても私の中のくす玉が、それも大きくはじけました!

とあるカフェに、私の作品集

「くまさんのげんきだま」

「ふうせんでつたえたいおもい」

を置かせていただいているのですが、それをご覧になられた方が、感激のあまり涙を流したのです。

私はただ単に「風船を膨らませてきた」わけではありません。

その風船一つ一つに「いのち(=生命)」を吹き込む気持ちで風船を膨らませてきました。

これは2015年10月19日の記事を編集して、「ふうせんでつたえたいおもい」に掲載したものですが、これを読んだときに感動のあまり涙が出たそうです。

こんな素晴らしい思いで風船に接しているなんて…だからこそ、人の心に響く作品たちができるのだ…

と思ったそうです。

常々「くす玉のような存在になりたい」という想いを抱いて生きている私ですが、その先にあるものは、私が生命を吹き込んだ風船たちによってもたらされる驚き、そして感動、さらにいつまでも心に残る幸せな気持ちなのです。

私が生命を吹き込んだ「くす玉バルーン」がはじけると同様、

私がくす玉のごとくはじけることによって、

周りの人たちも大輪の笑顔の花を咲かせることができるのです。

その無数の大輪の笑顔の花を咲かせる私って…

イリュージョニスト

なのかな…と思い始めました。

イリュージョニスト…魔術師、手品師、魔法使い、という意味です。

魔法使い、というと、あまりいい印象を私はこれまでいだいていませんでしたが、みんなの心の中の華を咲かせるということは、ある意味ものすごいパワーとエネルギーがいることです。そのパワーとエネルギーが私にはある、ということなのでしょう。

そして、くす玉がはじけるときのパワーとエネルギーによって、みんなの心の大輪の華が大きく開き、いつまでも忘れられない感動を残すことができるのでしょう。

その力が私にはある…

かつての私からは考えられません。

だからこそ、何千何万もの風船たちに生命を吹き込むのも、苦に思わないのでしょう。それどころか、わくわくしながら膨らませています。この風船たちがどれだけの笑顔の花を咲かせることができるかと思いながら…

笑顔を生み出すイリュージョニスト

笑顔を生み出すイリュージョニスト

2700個の風船たちがもたらすもの

こんばんは。

柱に巻きつけた風船、全部で約1100個(1セットあたり約275個)

バルーンドール、2つで合計約150個

エントランス

ベースのアーチ…1対で約170個(1つあたり約80個)

巻きつけた風船…1対で約400個(1つあたり約200個)

スパークバルーンシャワー…1個あたり約210個入り、合計約420個

このイベントの装飾と演出だけで、総数約2240個!

これが2017年11月3日に行われた、とあるイベントを彩った風船たちです。

この他にも細長い風船(ツイストバルーン)などで様々な作品をその場で制作したりしたので、その風船たちも入れると、

合計約2350個近くの風船に私は生命を吹き込んだ

ことになります…

次の日、2017年11月4日、私はこのような演出を手がけました。

天使の羽入り、約350個のスパークバルーンシャワー!

つまるところ、私は2日間で

約2700個の風船たちに生命を吹き込んだことになるのです!!!!

過去にはこのようなこともありました…→2010年10月のこと

この2010年10月は、旧Y’s Dreamの10年以上の歴史の中でも、最も多くの風船を膨らませた1か月だったのですが、これに匹敵する量の風船に私は生命を吹き込んだ、ということになるのです…

その風船たち一つ一つが、その風船たちに接した一人一人の心に残る感動をもたらす…

旧Y’s Dream時代、私はこのようなことを肝に銘じていました。

数えるべきは金ではなく、膨らませた風船の数である

膨らませた風船の数だけ感動が生まれ、多くの人の心に夢、希望、元気といったものをもたらすことができるのです。

私はとにかく風船が好き、という想いだけで、ここまで突っ走ってきました。

力尽きて、一度は引退しました。

それでもなお、これだけの風船たちに生命を吹き込むことができるとは

いかにすごいことなのか…

そして、私が一番愛しているといっても過言ではない、

くす玉バルーンシリーズ…(スパークバルーンシャワー、バルーンクラッカー等)

これだけの感動を生みだすことができるのは、

本当に好きなことを見つけ出し、それを社会に役立てようとして、それを極めたからこそできることなのかもしれない…

くす玉バルーンがはじけるのは、ほんの一瞬

しかし、その瞬間があまたの人に感動を残し、夢、希望、元気といったものをもたらすことができる…

その瞬間のために、私が費やす時間、流す汗、そして涙…

全てがうまくいった時、その場にいた人たちは、感動のあまり、どよめく。

そのどよめきが私に伝わった時、私はとてつもない達成感と快感を味わう。

その一瞬だけのために、私は何日も、何時間も、風船に生命を吹き込む。

くす玉がはじける瞬間に恋をして、自らその瞬間を生み出すようになり、その瞬間にもたらされる多くの感動が伝わった時、私は体中を突き抜ける快感を味わう。その快感は、たとえようもない。

生まれつきコミュニケーションがとりづらいという一種の発達障害、その障がいがあってもなお、これだけのものを生み出せるという事実…

だからこそ、私一人で2700個もの風船に生命を吹き込むことができるのかもしれない。

その2700個もの風船たちが語るものは何か…それに接する人一人一人に、夢、希望、元気、そして感動といったものが伝わっている。

好き、という力がどれだけ偉大なものなのか…

私は「勝負師」なのか!?

こんばんは。

この記事を書いているのは2017年10月25日。

昨日10月24日は、広島にとって大変悲しい夜になりました…広島が生んだ誇り高きプロ野球球団、広島東洋カープが日本に12あるプロ野球球団で3球団目の屈辱を味わった日でした…あまりの悲しさに、私はその夜、ショパンのピアノ協奏曲第2番第3楽章をずっと流しまくりました。

複数「やりすぎ」という声が出て、トーンダウンしましたが…

実は私はバルーンにここまでどっぷりつかるようになる20年ほど前、1995年ごろ、ギャンブルにおぼれていました。

とりわけ当時はパチンコにおぼれていました。

パチンコの他にも、住んでいた場所のすぐそばに競馬場があったこともあって、競馬はよくやっていましたし、当時勤務していた会社が競輪場への無料ファンサービスバスを運行していたこともあって、競輪にも手を染めていました。競艇場にも足を運んだことがあります(このとき「返還欠場」のルールが競艇にあることを知った→バルーン演出失敗=「返還欠場」というルールを作ってしまい、結果自分の首を絞める下地になってしまった…もっとも競艇、すなわちボートレースに関してはその奥深さを引退前後に知ることになるのだが)…

で、パチンコにおぼれる理由…どうも最近の研究では脳内麻薬物質といわれる「ドーパミン」が関係しているようだといわれています。

そういう私がパチンコをぴたりとやめることができたのは、バルーンアートに出会ったからなのです。これは紛れもない事実なのです。

バルーンアートに出会った→そちらへの投資を増やしたい→どこかを削らねばならない→当然削るべきはギャンブル、とりわけパチンコへの散財

ということになって、結局パチンコからは足を洗うことができました。

同時に当時溺れかけていた、とある新興宗教からも足を洗うことができました。

ギャンブル(とりわけパチンコ)から足を洗うことは、かなり難しいことらしいです…が、私は風船のおかげで、それができたのです。

ところが、私にはもう一つ問題がありました。これが発達障がいに関わる重大問題なのですが、

「セロトニン」が私は生まれつき足りないようなのです。

加えて両親が受けてきた厳格な教育。私の家系はどちらも武士を先祖に持ち、とりわけ母親の家系は世界有数の厳格な教育が施されていたという島津薩摩藩がルーツ。薩摩藩鶴丸鹿児島城下では「郷中教育」という厳格な教育が長年行われてきたが、その厳格な教育と男尊女卑という薩摩藩独特の制度、それに長男の夭折とその後の三姉妹という特殊な事情が絡み、行き過ぎともとらえられるほど厳格な躾とそれに伴う屈折した人生観が複雑に絡み合い、結果母親は深刻な神経症に苦しみ、私はその余波をもろにかぶることになってしまいました。あまりにもひどい影響が出た結果、私は風船を一度捨てざるを得ないほどの状況になってしまったです。

そういう私の生まれつきの生い立ちが関係して、結果的に

勝負師

としての道を歩むことになったのかもしれません。

スパークバルーンをはじめとしたバルーン演出は、一つ一つが真剣勝負です。

やり直しのきかない、少しでも失敗すると取り返しのつかない「真剣勝負」です。

しかし、その真剣勝負でもたらされるものは

その場に居合わせたすべての人たちにいつまでも心に残る驚きと感動

であり、

その場に接した人たちすべてが例外なく、笑顔と幸せに満ちた大輪の華を咲かせることができる

ということなのです。

私はその場に接した人たちの笑顔と幸せの大輪の華を開かせ、咲かせる魔術師であり、勝負師なのです。

そのほんのわずかな瞬間のために、私は何日も時間をかけ、悩み、苦しみ、汗と涙を流すのです。

一つ一つの風船に私は生命を吹き込む、という表現を私はしていますが、その風船たちがその場に接した人たちに笑顔と幸せの大輪の華を咲かせ、いつまでも忘れることのない感動と思い出を残すことができるのです。

私が生命を吹き込んだ風船たちによって、多くの笑顔と幸せに満ちた大輪の華が開くとき、私はたとえようもない達成感を味わうことができるのです。その達成感は、パチンコでもたらされるドーパミン全開のあの快感とも違います。自分から放たれるドーパミン、それに接した人が放つセロトニン、これらが一つとなってたとえようもない達成感と快感が私の体を突き抜けます。

自分がセロトニン不足という生まれつき抱えている問題を、自ら生み出すドーパミン全開のパワーを風船たちに託すことによって、すべてが結びついてその場に居合わせたすべての人たちにたとえようのない感動をもたらし、同時に自分はたとえようのない達成感と快感をもたらすことができるという、とてつもない幸福感を生み出すことができるのです…その場に居合わせたすべての人たちにとっての、最高かつ至福の瞬間を。

だからこそ、私は

感動の瞬間を生み出す勝負師並びに魔術師

になることができたのかもしれません。しかもその一端は、私が生まれつき抱えている障がいに間違いなく由来しています。

私が一つ一つの風船に生命を吹き込み、それがはじけた時に広がる最高の笑顔、まさにその笑顔は「華」であり、その場に広がったすべての笑顔の華がはじけ、最高の感動となる…その感動を生みだすことができる自分自身が、まさにその風船である「くす玉」の力であり、同時に自らを「くす玉のような存在」にすることができるのである。そういうことをすることが再びできるようになった今の自分は幸せだと思うし、そういうことができる今の環境に感謝しなければいけない、と思っている今日この頃である。

ふうせんたちの先に見えるもの

こんにちは。

テーマは「感謝・笑顔・未来」。

サブテーマは「宇宙」。

地球・星・雲・虹・花…を盛り込みました。

上から見ると、大地から花が開いたように見えて、最高でした!

そしてこのコマ送り。

動画はこちらです。

この一つの大きなバルーンにぎっしり詰まっているのは、約400個近いスマイルとハートの風船。

その場にいる人たちはもちろん、この動画を見るひとりひとりが笑顔になり、感動し、元気をいただくことができる…その想いが通じた時、私の心の中でも大きなくす玉がはじけました!

余談…このスパークバルーン、「太陽」をイメージして、オレンジにしたのですが…クライマックスの演奏曲が「それゆけカープ」…正直困ってしまいました…下の飾りをレッドのバルーンにして広島カープを表現しました。

というわけで、今、私はひたすら風船にみんなの想いを詰め込んでいる日々を過ごしています。

最大の山は次の三連休。

ざっと数えて、スパークバルーンに詰め込む小さな風船だけで合計1000個近くになりそうです!

それだけの風船を膨らませるのは、基本気が遠くなりますが…私はそんなことはありません。

かつての旧Y’s Dream時代には、1か月で約9000個以上の風船に生命を1人で吹き込んだという経験もあります。

風船を膨らませているときは、どんなつらいことも忘れて、夢中になれます。

その向こうに無数の笑顔と、たとえようのない感動、そしてその先にある夢と希望があるのですから。

つらいこともたくさんあります。途中でスパークバルーンをダメにしたり、間違って空に飛ばしてしまったり…

そういうかわいそうな風船たちの分も思いを詰めて、風船一つ一つにみんなの想いを乗せて膨らませ、生命を吹き込みます。

くす玉のひもを引っ張る気持ち良さ

こんにちは。

  

プライバシーの関係で画像を加工させていただきましたが、どちらの顔もすごい笑顔です。

とりわけバルーンクラッカーのひもを引っ張った女の子の表情は、まさにはじけるくす玉そのものともいうべき、最高の笑顔でした。

こちらもバルーンクラッカーを実際にはじけさせた時の様子。

そしてこちら。

この中には1つあたり約200個のハートのバルーンがいっぱいつまっています。同じ日に同じ披露宴会場で昼の部、夜の部と2組の結婚披露宴があったので、昼の部の1組分を膨らませた後に撮影しました。もう一つの外側を膨らませる前のボコボコのバルーンは2組目の夜の部用に準備していたもので、この写真を撮影後一旦倉庫にしまいました。

※別の日に撮影したイメージ画像です

私が一つ一つの風船たちに吹き込むもの…それは私と、その場にいるみんなの想いであり、それによってもたらされるのは、最高の笑顔と、いつまでも心に残る感動なのです。

私はくす玉のひもを引っ張った経験はないのですが、スパークバルーンのひもをタイミングに合わせて引っ張ったり、遠隔操作のスパーク装置のボタンを押したことは何度もあります。さらには新郎新婦と無数の風船が入ったドリームバルーンという特殊なバルーンのひもを引っ張ると同時に遠隔装置のスパーク装置のボタンを押したということさえあります。

これがその演出です。

その時の心臓が飛び出そうなほどのドキドキ感はすごいです。誤ったタイミングでボタンを押してしまわないか、遠隔無線の場合チャンネルや電源は間違ってないか…タイミングを間違えると、それまでの努力が水泡に帰してしまいます。「返還欠場」です。

タイミングを間違えたのは1度しかなかった(これは披露宴を指揮していたウェディングプランナーのキュー出しミスが原因だった→たまたま予備があり、別の形で同じような演出ができるよう大急ぎで用意し、2回分の演出料金を私は請求した)のですが、ボタンを押してもバルーンがはじけなかったという「返還欠場」は、何度かありました…その時のつらい思いはお察しください。

それだけではありません。その一瞬のために、何時間もかけて準備を私はするのです。流した汗と涙は計り知れません。

そうして生み出される最高の感動の瞬間。

会場中にはじける笑顔と広がる大歓声。

このとき、私の心の中でも、くす玉がはじけるほどの達成感を味わいます。

その時の気持ち良さといったら、何と表現したらよいか、わからないほどです。いまだに言葉が見つからない、そんな気持ち良さなのです。

このことについては、何度も書いていますが、いまだにわかりません。

それくらいすごい達成感なのです。

今回、ご縁があって「わーくしょっぷフェスティバル」なるものに参加させていただく機会をえました。そこで体験していただきたかったものは

風船でくす玉を作る、ということ

風船のくす玉を実際にはじけさせる、ということ

この二点でした。

その中で達成感と感動を味わい、自信を身に着けていただくことに主眼を置きました。

結果は大好評でした。

これからも私は、私とその場にいる人たちの想いを風船に託して、生命を吹き込み、くす玉としてはじけさせることによって、たくさんの人にいつまでも心に残る最高の感動と最高の笑顔を創り出して、夢と希望と幸せを届けていきたいです!

はじける!

想いよはじけろ!

好き!愛してる!という想いを夢にし、それをかなえるために…

こんばんは。

ぶっちゃけ言います。

私は、1996年にバルーンアートスクールに参加し、1997年に腰までつかるくらいの風船と紙吹雪のシャワーを実体験しました。この感動をいかにして社会に還元するか、という想いからバルーンアーティストとしての活動を始めました。

ただ単に、風船が好き、ということが原点ではありましたが、これらの経験をいかにして社会に生かすか、地域に還元するか、という想いが旧Y’s Dreamの出発点でした。

 1997年、最初の私の作品です。

今にして思えば、これは一種のタブーを犯していました。

どこがおかしいかはよく見てください。というか、本当に始めて間もなかったが故、そしてそこまで気配りができる真のバルーンデコレーターが本当にまだまだ少なかった頃の作品です。とある方から指摘を受け、私も納得しましたが、本当に勉強になりました。

答えは…「コー× コピン× 演奏会」です。

×の部分が風船で隠れていたのです。

私は納得しました。そして、この経験は今でも生きています。

この作品から、私は2012年まで、15年にわたって一気に駆け抜けました。

その間に生命を吹き込んだ風船の数、一体いくつあるのかわかりません。

ただその無数の風船たちが、多くの人たちの心に感動を残したのは間違いありません。

だからこそ今、私は未来を担う若者たちに、夢を語ることができるのです。

この年、私は大分県由布院を訪れました。

この地でたくさんの風船を飛ばしてみたい…

3年後の2000年4月、それは現実のものとなりました。

そして2010年までほぼ毎年、私は由布院を年に一度訪れ、バルーンリリースを行いました。(実際は長年の伝統の祭りであった「由布院温泉まつり」で由布院温泉で宿泊できる券を付けたバルーンリリースを例年行っており、そのバルーンリリースを毎年担当するようになった…佐田岬半島(伊方原発の近く?)・宇和島・今治等、愛媛県内で複数回拾われたらしい。)

その時の様子です。

もう17年も前の写真です。

2003年

2004年

2008年

2010年から2011年

1回目公演クライマックスエントランスアーチ披露宴会場ウエルカムゾーン

2015年

エントランス想いがカタチになり、そしてはじける

2016年

サプライズの風船が…2017年8月 2017年8月

2017年

もちろんこれらはほんの一部。

まだまだ私は風船に想いを託し、風船に生命を吹き込み続けます。

そして、その姿こそが、多くの人の心に感動を残し、夢と希望と元気をもたらすことができるのです。

はじける!

はじける!

このようなくす玉(すべて私が生命を吹き込んだ風船たち)のごとく、はじける想いを日々届けていきたいです!

 

 

 

 

 

 

あれから4年…まさかこうなるとは…

こんにちは。

2013年8月26日の投稿「最後は自分らしく」

2013年8月24日の投稿「恥ずかしい…でも今だからアップできる」

8月26日の投稿では「もう悔いはない」と、8月24日の投稿では「もう全身に稲妻が走る爽快感を味わうこともない…」という言葉があります。

この時点で私は、風船から足を洗うつもりでした。もう2度と風船を膨らませることはない、と考えていました。

この投稿の数日後、私は南九州に車を走らせていました。鹿児島の先祖に報告するのと、宮崎の知り合いのバルーン業者さんに機材を売却するためです。その際、霧島神宮の賽銭箱に、旧Y’s Dreamの看板を一切合切投入してきました。

2012年5月に鬱を発症、9月ごろに少し落ち着き、再開の方向性を一度は模索しました。同じ年の11月には、私しかなしえないようなバルーン演出を手掛け、成功させました。

しかし、同じ年の12月ごろから、国際情勢の変化とシェールガス革命の影響などが重なり、日本国内にヘリウムガスが入ってこない「払底」が発生。これをきっかけに、前年の東日本大震災から変化しつつあったバルーンの立ち位置の方向性の変化が決定的となる一方、払底は長期化。さらに家庭の事情も重なり、「これ以上続けると深刻な事態になる」と判断、

完全引退・転進再就職

の方向に向かうことにしたのです。

そのため、私は徹底的に自分の思考を変える訓練を自分自身に課したりもしました。バルーンの経歴を隠した職務経歴書や履歴書を作成し、転職コンサルタントに相談したこともありました。ある転職コンサルタントは「13年間ホストをやっていたのと同じ」とまで言い切りました。バルーンアーティストとしての自分を「黒歴史化」することを試みたのです。(当時制作したY’s Dream作品集も、歴史の中に閉じ込めて封印したい、その一方で私が残した遺産を他の人に自由に活用してほしい、という想いから制作したものです)

ところが、「黒歴史化」は失敗しました。

2014年春、趣味としてのバルーンを細々と再開。一方で、店舗のバルーン装飾の依頼なども来るようになる。

2015年、「精神障がい・発達障がいに苦しむ人たちが社会参加するきっかけづくりにバルーンを活用する」ことを目標としたプロジェクトを立ち上げる。このプロジェクトが現在私が所属している会社に引き継がれて、今に至る。

最新の作品集タイトル

画像をクリックすると、2014年以降の作品を見ることができます。

結局、私は

本当に風船が好きで、風船を愛し、その風船に生命を吹き込むことによって自分を表現し、その生き様が多くの人を元気づけているという事実

に直面していたのです。

その私が生み出した、新たな表現手段

バルーングラフィックタイトル

これも画像をクリックするとご覧いただけるのですが、これをベースにした私の生きざまをダイジェストにして、精神障がいや発達障がいに苦しむ人たちを元気づけるために制作された本が

くまさんのげんきだま2016表紙

くまさんのげんきだま、という小冊子でした。

これはすでに多くの人に行きわたり、熊本県内のとある放課後等児童デイサービスでは、教材に使っていただいているほど、多くの人たちに夢と感動と元気を与えています。

そして今、多くの人たちに夢と感動と元気を分け与えることができています。まさに

くす玉のような存在

になっています。

私は生まれつきの自閉症を抱えています。いわゆる「アスペルガー症候群」と呼ばれる典型的な症状が出ています。加えて母親が精神疾患を抱えていて、その原因が母親が受けてきた厳しすぎる躾に原因があるとみられています。そして両親はいわゆる「過干渉」型の「毒親」でした。

私は「道に外れた親といえども、泣いて自らをむなしくして従うべき」という儒教の教えを根拠にして、自らをむなしくする努力を積み重ねてきました。しかし、その努力は実ることはなく、むしろ正反対の結果をもたらすことになりました。

何が起きたのか…「自己否定の塊」だった4年前からは想像もつきませんでした。

なぜ両親、とりわけ母親は「毒親」になってしまったのか、その原因はどこにあったのかを探求することから始まり、自分の在り方を整理するために母親の故郷である鹿児島にことあるごとに何度も足を運びました。旧Y’s Dreamの看板を置いてきたのも、霧島神宮でした。

旧Y’s Dream時代、自分で自分をほめることをめったにせず、「返還欠場」という厳しいルールを自分に課してストイックに追い込んでいました。完全主義者として、自分自身を極限まで追い込んでいました。その結果が破たんでした。

今、自己否定を捨てた私は、一転自己肯定感に満ちています。だからこそ

くす玉のような存在

を唱えることができ、実践できているのでしょう。

自分が創り上げてきたもの、自分がなしえてきたことがどれだけすごいことだったのか、一度引退して初めて知りました。あれだけどっぷり使ていた風船の世界から一度離れてみて、客観的に見て初めて自分がしてきたことのものすごさを知ることができました。

そのような経験をしているからこそ、今、多くの人たちに夢と感動と元気を与えることができるのかもしれません。

大観峰から望むくじゅう

大観峰から望むくじゅう

大観峰から望む外輪山

大観峰から望む外輪山

2013年8月、私は阿蘇の外輪山を駆け抜けて椎葉を経て霧島神宮・宮崎へ(2013年5月も阿蘇を訪れていました)。

2017年8月、またしても阿蘇を訪れました。

2013年8月

2013年8月

2013年8月

2013年8月

2017年8月

2017年8月

2017年8月

2017年8月

ちなみに画像はありませんが、この披露宴では最後のクライマックスに約250個の風船が舞い降りるスパークバルーンシャワーも行いました。すべてが一つの作品としてセットになり、多くの人を感動させることができました…が、「焼きが回っていました」。

 

 

見る人、接する人を元気にするような仕事をしたい

こんばんは。

今日は風船の画像ではありません。

大観峰から望むくじゅうと朝日

大観峰から望むくじゅうと朝日

南阿蘇から望む阿蘇五岳

南阿蘇から望む阿蘇五岳

阿蘇山の画像です。

ご存知の通り、阿蘇周辺は5年前、2012年には大水害に見舞われました。これだけでも大変つらいのに、2016年にはもっと悲惨な出来事が…熊本地震が発生しました。

画像から見える範囲では、度重なる災害から着実に復興が進んでいるように見えますが、ところどころ手つかずのままの場所がありました。特に阿蘇大橋周辺は壊滅状態で、国道57号線はトンネルを掘って移設、阿蘇大橋自体も移設して再建するそうです。

他にも今回、道中で先日の集中豪雨の被災地を通過しました。

それはさておき、私はある目的があって阿蘇の方へ向かったのですが、阿蘇はあくまでも「プラスアルファ」。阿蘇の反対側、福岡県筑後地方のとある場所に向かったのです。

そこで私が体験したことは、驚きに満ちていました。

その目的地は一つの新しい小さなレストランだったのですが、このレストランは30年近く、すぐそばの山の中で長年営業を続けてきました。2012年の大水害の際に、店舗を流され、その後再建したのですが、今年になってハムなどの燻製工房を残して週末のみの営業とし、レストランを実質麓にある古い蔵に移したのです。蔵をリニューアルして、今年の夏に営業を開始しました。

そのレストランのシェフが、女性なのですが、とあるきっかけで私と非常に親しくなったのです。

出会いは昨年秋、別府鉄輪温泉の「蒸し足湯」でした。彼女は別府を初めて訪れたとかで、何度も別府を訪れていた私は鉄輪温泉の共同湯を案内、その後時々連絡を取り合う仲になりました。

彼女はシェフを目指して、昨年名古屋から筑後地方の山中にIターンしてきたのです。

有り余るほどの自然に囲まれて、自ら理想とする料理を目指しています。

その彼女、私の風船に対する思いに共感したようです。…何が彼女と私を結びつけたのでしょうか…

共通するものは、

感動を創り出す、という想い

でした。

私は「一度彼女がこのレストランで働いている姿、そしてそのレストランを訪れてみたい」と強く感じました。

そして先日。私はSNSでこのレストランがうきは市の里の蔵に降りてきたという情報をつかみ、広島から車で片道6時間かけて訪れました。

そこで目にしたもの…

リーダーである彼女を中心に、4人の若い女性たちがそれぞれの持ち場で働いていたのですが、

4人とも笑顔が素敵!輝いている!

聞くと、4人ともIターンらしい。神奈川や秋田から、自ら輝ける場を求めて筑後うきはへ移住してきたのです。もう一人も福岡近郊からの移住者。

私は元気をいただきました。そして別れ際

「いつかこの店を風船でいっぱいにしよう」

という話をしました。

カフェ・バル 溜

イビサスモークレストラン

上記リンクでどのような店かをご覧ください。

その後私は、天ケ瀬温泉の複数の露天風呂に入った後車中泊し、阿蘇の大観峰で朝日を望んできました。

旅日記はここまでです。

ここで言いたいことは何か?

私が風船に生命を吹き込むことによって、どれだけの人に夢と感動を提供することができるのか

そして

私が吹き込んだ風船たちが、どれだけの人を元気づけることができるのか

そのような姿勢で風船に長年接してきた結果、今の自分があるような気がするのです。

…阿蘇の大観峰を訪れたのは23年ぶりでした。23年前、秋晴れの大観峰から展望した阿蘇と久住の燃えるような景色は、忘れられないほどの絶景でした。それから23年、自分が生み出してきた感動と夢は数知れません。

大観峰から阿蘇五岳を望む

大観峰から阿蘇五岳を望む

感動を生みだすためには、自ら感動する心を持ち続けなければいけない…何千年も変わらない大自然が生み出した感動の力によって、新たな感動の瞬間を創り上げる力にすることができる…

Balloons make Everyone Happy! 2016バージョン

Balloons make Everyone Happy! 2016バージョン

 

ぱんぱかぱーん!とはじけたい!

こんばんは。

今日の見出し、何だか

頭を割ると風船と紙吹雪が出てくるの?

みたいなタイトルです。

これは先日開催した「夏休みバルーン教室」の様子。

見ていただければわかるか、と思いますが、これまでの一般的なバルーン教室とは大きく異なります。

私の風船に対する想いがぎっしりと、それこそ「くす玉バルーン」のように詰まっていて、その想いがはじけるというイメージで創り上げた内容になっています。

このようなことができるようになるとは、

作品集表紙(2013年8月制作)

作品集表紙(2013年8月制作)

4年前からは想像もつきませんでした。というか、4年前、2013年の今頃、私はもう風船から足を洗うつもりでこのような作品集を作りました。当時の私はキャリアリセット、キャリアチェンジを目標としていました。どのようにしてこれまでやってきたことを無にして、全く違う自分に変わるか…

ところが、それはできませんでした。

結局できたのは、全く違う形で、風船に対する想いを通して、若者たち、とりわけ発達障害や自閉症などで夢を見失った人たちに夢と希望を与えるということでした。そのような使命を帯びて、今の会社で働かせていただいている、というのが実情です。

その結果、

風船に対する想いを積み重ねるだけのその生き様によって、多くの人を元気づけることができる

という、おそらく日本中探しても数えるほどしかいないような存在になってしまいました。

というか、

それだけ凄いことを私がしていたということに、10年以上気が付いていなかった

のです。

実際、先述の4年前に制作した作品集(画像をクリックするとその作品集がご覧いただけます)は、過去の私がしてきたことを振り返るために制作したつもりなのですが、結果わかったことは、

自分のしてきたことがいかにすごく、かつ素晴らしいことだったのか

でした。

その経験を踏まえ、他方では様変わりしたバルーン業界の動向も踏まえ、これからどうすべきか考え抜きました。

その中でも、様々な感動を生み出す機会に恵まれました。それらの作品は、

最新の作品集タイトル

上記バナーをクリックするとご覧いただけるようになっています。

確かに私は焼きが回り、技術面では到底今のバルーンアートの最先端には及びません。しかし、それでもこれだけのものを創り出せるのが現実なのです。

それだけではありません。

はじける想い

はじける想い

のようなバルーングラフィックと呼ぶ、私が創り上げた作品だけで1枚の絵ができ、それ自体の作品集までできているのです。

そして、今や私は目指していた、

くす玉のような存在

になりつつあるのです。

私が生命を吹き込んだ風船たちが、多くの人を元気づけているのです!

パンパカパーンとはじける想い

パンパカパーンとはじける想い

なぜ「パンパカパーン」を表題にしたのか、というと、

自分の生き様がそれこそくす玉のごとくはじけると同時に、多くの人を元気づけられるという姿を音で表したら、これになったからである。

自らの手によって生命が吹き込まれる風船たちによってもたらされる感動

その風船たちによって生み出された感動を自分の言葉で伝えられる私

そしてその姿によって元気づけられる人々…

そういう存在に自分が気が付いたらなっていた…これからもそういう生き方を続けていきたい

自分をプロデュースするということ

こんにちは。

先日、昭和雑貨を集めたというカフェを訪れる機会がありました。

昭和といっても高度経済成長期からオイルショックのころにかけて、さらに80年代前半までのものが多く、バブル時代の少し前ですから、私にとっては懐かしいものがたくさんありました。

このカフェで「くす玉」が話題になりました…そうです、「くす玉」は昭和40年代後半から平成初期にかけて、カラーテレビ映りがいいこともあって、華やかな演出の代表格だったのです。

仮に今この番組があったらどのような効果になってたのだろうか…

以下はWikipediaより転載です。
10問正解してゴンドラが頂点に上がるとファンファーレが鳴り、解答者席上(天井)に吊るされていたくす玉が割られて、大量の紙吹雪と風船(色は赤・橙・黄・緑・青の5個)が降り、日航で行く「夢のハワイ旅行」と賞金10万円獲得となる。なお降ってきた風船は出場者あるいは観客の子供たちがもらうことができた。
全ての解答者席上にくす玉が設置された1973年12月以降のくす玉割りは、同じロート製薬提供でTBSの『クイズダービー』同様、スタッフの機械操作で行われていた。
紙テープは入っていないが、新井たかし著の「クイズで儲けろ」に宝田明が10問正解・ハワイ旅行達成の瞬間で紙吹雪を浴びる場面の写真には紙テープが入っていた。
クイズ番組で最初にくす玉・紙吹雪・風船・紙テープの演出を始めたのがこの番組である。ちなみにテレビ番組全体はNHK紅白歌合戦がさきがけである。
(中略)
紙吹雪が降った後、10段目に上がったゴンドラに飛行機のタラップに相当する階段を寄せ、当初は日航の客室乗務員が解答者にフラワーレイをかけて、エスコートした。その際、その階段を客室乗務員が上がり、ゴンドラの扉を開けて、10問正解者を出迎え、専用席でシルエットゲストから副賞の賞金10万円の目録が手渡された(但し、前半(シルエットゲストがいない時)で10問正解を達成した場合は小池が手渡す)。ゴンドラが色分けされてからは、テニスウェアを着たアシスタントがレイを掛けにいくようになり、専用席で日航の客室乗務員が目録と航空バッグを渡す形になった。
(中略)
10問正解・ハワイ旅行獲得時に割られるくす玉は当初1つだけで、10問正解しそうな解答者のゴンドラ上に来るよう後ろでスタッフが操っていた。しかし、収録中スタッフが誤ってセット上にぶつけて割り、紙吹雪と風船を降らせてしまったため、収録が一時中止となったことがあったことから、その後は2つ設置された。しかしながら、1973年11月25日放送の「ヤングレディ特集」の大会で初めて10問正解者が3人も出たために、3人目にはくす玉が用意されなかったというハプニングがあった。これを機会にすべてのゴンドラ上に設置されるようになった。
小池時代に放送中、問題を読んでいる時に何かの拍子で誤って全てのくす玉が割れてしまい、紙吹雪と風船を降らせるハプニングもあって、小池がお詫びをしたこともあった。くす玉を割るための機械にトラブルが発生して、くす玉を割るボタンを押していないにもかかわらず、機械が割れるという信号を出して割れてしまったことが原因と思われる。くす玉を割るための機械があること自体が余り知られていないものであるが、『クイズダービー』でも使われていた(『クイズダービー』も参照)。
紙吹雪が大量のため、10問正解・ハワイ旅行達成者の両隣の解答者が浴びることも少なくなかった。このため頭や肩等に紙吹雪が付着したままの状態でクイズに参加していた。
風船が隣の解答者に落ちたり、ステージ上に落ちたりすることもあった。
1978年8月27日放送の「15周年記念全国大会・中部甲信越地区大会」でも、下に記した通り隣の解答者に落ちた風船が割れるハプニングがあった。
⑤の解答者(女性)がラッキークイズで10問正解を達成(結局2人目の10問正解達成者が出ず、決勝進出も決定)、くす玉が割られた。その後、前半に2問誤答でお出となった④の解答者(男性)が復帰。風船が引っ掛かっていたのを知らずに解答して正解、風船が割れる音に驚いた。そこで小池が「⑤の方の風船が割れました、ごめんなさい」と謝罪した。
右端の⑥の解答者(男性)のゴンドラにも風船が降り、1回目の誤答時までそのまま置かれていたことと、10問正解・ハワイ旅行を獲得していないのに大量の紙吹雪を浴びたこと。風船は1回目の誤答後にアシスタントが除けたが、紙吹雪は終盤に2問誤答でお出となる際に慌てて払い落とした。この理由は本来ならば⑤の解答者のくす玉が割れ紙吹雪と風船を大量に浴びなければならないのに、右隣にいる⑥の解答者のくす玉を誤って割ってしまったのである。
10問正解を達成したにもかかわらず、くす玉が割られず、紙吹雪と風船が降らなかったこともあった、逆に10問正解を達成していないにもかかわらず、くす玉が割れ、紙吹雪と風船が降ったこともあった。
なお、紙吹雪は小池時代の頃、細かく刻んでいた。そのため、小池は「あとで払い落として下さいね」と言っていた。
(引用ここまで)

結構いろいろあったようですね…

1980年ごろといえば、先日記事にした「パネルクイズアタック25」やこの「アップダウンクイズ」のほかにも、「世界一周双六ゲーム」や「三枝の国盗りゲーム」や「クイズタイムショック」など、視聴者参加のクイズ番組が花盛りの時代でした…パネルクイズ25は今も続いていますが、それ以外は1986年春を境に無くなりました…。このころの最高峰が「アメリカ横断ウルトラクイズ」。私も出ようか、と考えましたが、東京ドームが遠かったのでやめました…

よく考えたら、「タイムショック」と「ウルトラクイズ」以外は大阪で収録されていたのですね…

2011年5月の旧「ふうせんやさんのひとりごと」から持ってきました。ちなみにここで論じられていたのは、「アップダウンクイズ」のことです。

その続きがこの記事でした。

そこから引用

くす玉が

キャノン砲

バルーンドロップ

スパークバルーン

に進化したのは今の状況を見ればわかるでしょう。

(中略)

こうしてみると、

くす玉の演出は古くて新しい

ということなのかも…

いずれ近いうちに、

どうしてくす玉がはじける瞬間は感動を呼ぶのか

ということを述べなくては…

引用ここまで

とあるが、最近になって、どうもその答えが見えてきたような気がします。

先ほどの記事を書いたのが2011年5月ごろのこと。このころ、私はまだ突っ走っていたころでした。東日本大震災が起きて、社会の流れが少しずつ変わり始めていたのですが、その変化に気が付かず、少しずつY’s Dreamが傾き始めたころでした。

その後、鬱発症→発達障害と毒親の問題に直面・ヘリウムガス払底(ほぼ同時期)→引退…という経過をたどり、風船から離れた時期がありました。ところが、あるきっかけで復帰することになり、今に至ります。

復帰後はこれまでとは異なった展開をしていますが、今までと同じことをしても失敗を繰り返すだけだと考え、違う側面から風船にアプローチしています。

その中で、この「ふうせんでつたえたいこと」や「バルーングラフィック」を制作し、これを障がいのある人たちに自信を身に着けさせるために生かそうと企画して制作したのが「くまさんのげんきだま」です。これを制作したことによって、自分の目指すべきところがはっきりしたのは事実です。

すでに多くの方がこの「くまさんのげんきだま」を手にし、読まれているようです。先日は特別支援学校の研修会の教材にまでなりました。

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私が常日頃言っている

くす玉のような存在

「くまさんのげんきだま」

「バルーングラフィック」

「ふうせんでつたえたいこと」

全てに通じるものがあるのですが、これを私はすべて自分で作り出しました。その過程で、まさに私はその存在に近づくことができたのです。

これらを見るだけで、

元気が出た

生きる力になった

という声をたくさんいただきました。そういう声を聞くと、私の心の中で、また一つくす玉がはじけるのです。

先日も

「げんきだま」はすなわち「くす玉」のこと

というようなことを述べましたし、

くす玉を見つけ出すのもはじけさせるのも自分、周りにいる人たちはその手助けをする役目がある

というようなことも述べました。

もう一つ言わせていただくと、

パンパカパーンとファンファーレを鳴らしてあげるのも周りの人の役目だと思います。

先日、私はこのような動画を制作しました。

この動画、前半のスパークバルーンがはじける瞬間にファンファーレを合わせました。一方後半のそれは、オーディオをそのままにして、会場の歓声をそのまま臨場感がある形で伝えています。

この動画も私が自分で制作しました。もちろんすべて、私が手掛けた感動の瞬間や作品で構成されています。

何を隠そう、この動画、私の風船に対する想いをそのまま形にしたものなのです。

この動画を見て、皆さんに元気と希望と夢を持ってほしいというのが私の願いなのです。

一連の小冊子、「バルーングラフィック」作品、そしてこのショートムービー、すべて

自己表現の一種

であり、セルフプロデュースにつながっているのです。その中心にあるのが

くす玉のような存在

というキーワードなのです。

私が生命を吹き込んだ風船たち、そして、私の生き様が、多くの人の心に残り、夢と感動と元気を分け与えることができる存在…それが「くす玉」であり、私はそうなりたいのです。