私がこよなく愛した感動の瞬間たち

こんにちは。

流した汗と涙の向こうにある、無数の笑顔の華
私が生命を吹き込んだ風船たちによってもたらされる笑顔の華たちと、いつまでも心に残る感動…

この動画にあるのは、その中でもほんの一部です。
私が華開かせた笑顔の華たち…本当に数え切れません。20年余りの長きにわたって、どれだけの笑顔を咲かせることができたのでしょうか…

 

ほとんどの動画から、大きな歓声が聞こえてきます。

歓声の大きさの分だけ、私の心の中でもくす玉がはじけます。

これからの活動について

こんにちは。

3泊4日で帰郷(鹿児島)していました。

 

開聞岳、佐多岬(屋久島を望む)、曾木の滝…

珍しくバルーン以外の画像です。

実は、

ふうせんまつりでやりたかったことはすべて果たしました

6年前(2013年)、一度廃業・引退に追い込まれたことがありました。

その時の記事はこちら

この時は正直、自分の限界を悟った、という感じで、

「もう風船はいい、たくさんだ」

という感じでの引退でした。この時は母親の病状も深刻で、父親から聞いた話では…「もう風船を辞める以外に母親の病気は治らない」というような状況でした。

ところが、私が風船を辞めても、母親の病気は治りませんでした。さらに、叔母の「緩慢な自殺」…

違うところに原因がある、と私は判断しました。

最終的に第二次世界大戦と戦後の混乱が大きな要因である一方、社会がどんどん変化し、昭和の時代に正しいとされた厳しい躾の徹底という子育てのやり方では子どもの自己肯定感は養われないとされました。これから国際化が進展する時代、自己肯定感と達成感を培うことが子供の成長にとって極めて重要といわれています、

昭和の時代はそれこそ、厳しい躾を徹底させ、「ちゃんと」育て上げることが親の務めとされてきました。学校教育も集団主義が中心であり、「良き社会人」「良き企業戦士」を育てる教育システムが確立されていました。

私の両親はそれを「是」ととらえ、私に対して厳しい躾を施しました。

ところが、これが間違いのもとだったのです。というか、母親は特に、間違いに気づきながら、周囲の目を気にしてしまったのです。とりわけ母親の両親を意識しているような感じでした。

間違った、というか時代に合わなくなっていた論拠をもとに私は「風船はもういい」と考えていた節があります。

しかし、私は「たとえ親が誤っていても、子は泣いてそれに従わねばらならない」という考えに至っていました。その考えを徹底させるために、「論語」を読み、朱子学について学んだりもしました(両親が儒教的思想に基づいた思想が非常に強かったのも影響している)。挙句の果てには「世間の非常識、我が家の常識」とまで思うようになりました。現実問題、約半年近く、一つも風船を膨らませなかった時期がありました。

そこから立ち直り、再び風船に接する日々が続きました。

一方で、風船の在り方は多様化し、バルーンに対する接し方も多様化してきました。

そんな中、私は「福祉の分野でバルーンの経験が生きる」と判断、そちらを強化していこう、と考えるようになりました。2013年前半に起きた「ヘリウムガス払底」の結果、バルーンの市場とあり方が変化していきました。「インスタグラム」の浸透でバルーンの需要が伸びる一方、供給も増え、バルーン市場全体が大きく変化しました。その中で私は、「認知症予防にバルーンが効果的」と感じるようになり、「レクリエーション介護士」の資格も取得しました。

他方、ブライダルの市場は少子化に加えて「なし婚」の増加で、年々縮小傾向にあり、とりわけここ数年はその傾向に拍車がかかっているように思えます。当然バルーンの需要も低下し、最盛期だった2000年から2010年ごろの半分以下にまで落ち込んでいます。

このような経緯や現状に基づき、さらに「ふうせんまつり」によって自らが目指していた方向性が確かなものになったことを踏まえ、今後のバルーンの活動を大きく転換することにしました。

強化すること

1:子どもたちや若者の自己肯定感や達成感の醸成の手段としてバルーンを活用する

かねてから主張している「くす玉のひもを引っ張るときの勇気と引っ張った時の達成感」をより多くの人に広げていくための活動を、これまで以上に強化します。自ら思い切って一歩を踏み出し、何かを生み出すことによって、周囲の人に笑顔と幸福感をもたらし、自らは達成感と自己肯定感を味わうことができる、ということをより幅広く伝えていきます。

具体的には子ども向けワークショップの充実、ネットラジオパーソナリティーなどの活動を通して子どもたちや若者に「くす玉のひもを引っ張るときの勇気と引っ張った時の達成感」を体感していただきます。できない、と思うのではなく、チャレンジしてできた、時に花開くくす玉のような気持ちを大切にすることによって、これからの時代を生きる子どもたちや若者に求められている「自己肯定感」「達成感」を培っていく活動を進めていきます。そのために自らの経験、とりわけバルーンアーティストとしてやってきた20年以上の経験を伝えていきます。

2:高齢者の生きる活力の醸成の手段としてバルーンを活用する

風船を使って作品作りをすることによって、高齢者が手先を動かすことが脳を活性化させ、認知症の予防につながるということが最近明らかになりつつあります。また、風船の楽しさ、美しさ、華やかさに触れること自体、同様に脳の活性化と生きる活力につながり、認知症予防につながるといわれています。実際、私は高齢者向けのバルーン教室を何度か行いましたが、風船で作品を創ったり、形にしていくこと、さらには風船に触れること自体で高齢者の皆さんが笑顔になり、生きる活力につながっていることを実感しました。

今後は、より一層高齢者向けのバルーン教室などの活動を充実させることにしています。その一環として、「介護の確実な知識が必要」と判断し、本年夏以降「介護初任者研修」を受講します(介護ヘルパー2級相当の資格は秋をめどに取得予定)。

3:障がいのある人たちや引きこもりの人たちへ生きる希望を与える

 

私は「自閉症」の一種である、いわゆる「アスペルガー症候群」という障害を抱えています。これは一種の発達障がいですが、この種の障がいに対しては、社会の側が障害を生み出している傾向が非常に強いです。その結果、「毒親」「ひきこもり」問題につながっていると考えます。下関駅、秋葉原、荒川沖駅といった事件から相変わらず多い「親殺し」「子殺し」「家族間殺人」まで、背景にあるのは「厳しすぎる躾」「誤った躾」であり、それを求めてきた近世以降の社会の在り方に問題があると考えます。自分自身もその影響を強く受けており、「風船がなければ引きこもりに陥っていた」と考えています。

私を救ってくれた風船に感謝するとともに、この経験をやはり次の世代を担う若者たちに伝える必要があると考えています。

以上の三点を重点に、今後の活動を行います。

一方、以下の活動は大なり小なり縮小する方針です。

イベントやブライダルの演出及び装飾

市場が縮小傾向にあります。また、「ふうせんまつり」によって私なりの完成形と限界が見えました。経験値は豊富ですので、今後は技術維持も含め、依頼があった場合は全力を注いで行う、という形をとりたい、と思います。これらは一瞬一瞬が勝負です。成功すると大きな感動と達成感を生み出す半面、失敗すると奈落の底に突き落とされます(これをいわゆる「演出事故」「返還欠場」と私は読んでいる)。さらに言えば、いただいた仕事に全力を注ぐ姿を通して、生きる希望を与えることができる、という側面もあります。よって、注文はこれまで同様お受けできます。

夜の店舗の装飾

これも依頼があった場合に限定します。積極的な売り込みは行いません。かつては手広く手掛けていましたが、体調不良の原因となり、長期休業に至ってしまいました。よって、過去の作品を見ていただいて、ぜひお願いしたい、と考えた時に注文をお受けしますので、ご注文は引き続きお受けできます。

コンテストで技術を磨き、技を競う

もうこれこそ、やるつもりはありません。これに関しては「縮小」ではなく「撤退」「引退」宣言といたします。若い方や経験値の低い方がどんどんチャレンジしていただきたい分野です。特定の人の支援もしません。ただ私ができるのは、若い方や経験値の低い方にアドバイスすることのみです。

以上が今後の活動の指針です。

引き続きよろしくお願いします。

 

夢をかなえたからこそ伝えられること

 

こんにちは。

とにかく見てください。

私が渾身の力で創り出した究極の感動の瞬間を。

 

ふうせんまつり~ゆめの国の宝さがし~からはや2週間。

自分の限界に挑み、成し遂げられた仕事。

そして…

自分自身でくす玉のひもを引っ張りながら「おめでとう」といえるようになる…

夢をかなえる、ということはそういうのことなのかもしれません。

くす玉がはじける瞬間に咲き誇る無数の笑顔の華…

夢がかなう瞬間…自分のみならず、自分の周囲にいる人たちも幸せにすることができる…

自分はそういう存在になることができました。
そして、これからもそういう存在であり続けたいのです。

いくつものくす玉を華開かせ、ついにはとてつもなく大きな大輪のくす玉を華開かせることができた…たくさんの「おめでとう」に包まれて…

そのためにはどれだけの汗と涙を流してもかまわない、という心構えが必要です。そこにあるには
「このくす玉を絶対に華開かせる」
という強い意志です。
そして、その時の自分の姿をイメージすることが必要です。

流した汗と涙の分だけ、幸せは必ずやってくる
そして、華開いたくす玉は、自分にとって「これから生きていくための自信」という、大きなプレゼントを自分に残してくれます。

夢をかなえるということは、そういうことなのです。

夢をかなえようとする姿によって、多くの人を幸せにすることができるのです。

夢をかなえたからこそ、できることがある…

これから私は、一人でも多くの人のくす玉を華開かせる手助けをしていきたいと思っています。

キセキのキセキ…「ふうせんまつり」を振り返る 第3章 暗礁そして再スタート

第2章より続く

実行委員会では、厳しい意見が続出しました。

「このようなコンセプトでは集客が厳しい」「2日間もやるのはどうか」…

とりあえずの顔合わせということもあって、「これから練り上げていこう」ということにはなったのですが、煮詰まり状態となり、私は自分一人ではしんどくなってしまっていました。しかし、この言葉が実行委員のグループチャットに書いてありました。

「実行委員となった方々は私を含め、バルーンの持つ魅力や梶川さんのお人柄や作品の魅力に十分に気付いている集団です」

このような発言が出て、ほかの実行委員の皆さんからもそれを支持していただいている…今までやってきたことを認めていただいて、それを踏まえて最高のものをつくりあげようとしているチームができつつあるということを私は強く自覚しました。そして、強くこう思いました。

彼女たちのためにも、この「ふうせんまつり」を企画倒れ、失敗に終わらせるわけにはいかない。何としても成功させなければならない

私はこの発言や、グループチャット内で繰り広げられたやり取りを見て、

この方々たちを信頼して、このチームにすべてを任せてみよう

という考えに至りました。

それまで私は、人に任せる、ということをあまりしない人でした。自分が行うことは自分が仕切る、という考えでした。その結果、考えが合わない人は私のもとからどんどん去っていきました。かつてのY’s Dreamが行き詰まってしまったのも、この私自身の考えが影響していたのかもしれません。

今振り返ってみると、この判断が成功の最大の要因のような気がします。そして、私はこう考えました。

私ができることは「ふうせんまつり」が失敗に終わる要素を作らないようにすることしかない

風船以外に私ができることはそれしかない

「ふうせんまつり」を成功させるために私ができることは何かを最優先に考えるようになりました。

そんな中、大ピンチが…

私が「ふうせんまつり」を企画したことが、当時勤務していた会社で問題視されたのです。

さらに悪いことに、この時期、会社は経営計画の見直しを進めているところでした。会社は私をリストラすることを決断、「ふうせんまつり」は中止も視野に入れた大幅な見直しを余儀なくされることになりました。

私は中止も考えました。しかし、

「実行委員となった方々は私を含め、バルーンの持つ魅力や梶川さんのお人柄や作品の魅力に十分に気付いている集団です」

という考えに賛同した人たちが、実行委員として残っていました。私は

延期(4月27・28日開催を6月2日に)・企画内容大幅見直し・日程の圧縮(2日間を1日に)

という条件を受け入れ、当初考えていた全額自費開催も見直しを受け入れました。そうして2月17日、「ふうせんまつり」は「~ゆめの国の宝さがし~」というサブタイトルが付いて、再スタートを切ることになりました。

今にして思えば、この決断が成功につながった、と考えています。確かにこの段階では、苦渋の決断でした。しかし、この決断以外にあった選択肢は、「開催中止」しかありませんでした。仮に開催中止、となっていれば、私は元も子も失うことになり、実行委員をはじめ、「ふうせんまつり」に期待していたすべての人たちの想いを裏切ることになります。そして私は何も残すことができず、すべてを失い、引きこもりの中年ニートになってしまっていたでしょうし、自暴自棄になっていたかもしれません。

5月下旬に首都圏では長年引きこもっていた(中学卒業から50代に至るまで35年余りも!)男が大量殺人を犯したうえで自らも自害したり、中年ニートになってしまった息子を事務次官という社会的地位の高い職業まで勤め上げた元官僚が刺殺してしまったりという事件が起きました。私は「風船がなければ、風船に携わることがなければ、自ら命を絶っていたか、塀の中に半永久的に入っているかのいずれかになっていた」と事あるごとに述べています。これらの中年ニート、引きこもりの人たちは60万人程度いるとされています。それこそ鹿児島市や船橋市の人口に匹敵する数です。彼ら、彼女らを生み出したのはその親に原因があるケースが多く、たいてい背後に厳しすぎる躾が絡んでおり、その親もまた厳しい躾を受けた、加えて厳しい躾は昭和初期から第二次世界大戦をはさんで高度成長期に至るまでの社会の要請にかかわるところが大きいとまで言われています。いわゆる「毒親の世代間連鎖」であり、私の両親及び祖父母もそうでした。

これを断ち切って、自己肯定感を高め、達成感を味わせるのが今の子どもたちに必要と考え、「ふうせんまつり」にはそのような要素を多く盛り込むような企画を用意していました。「くす玉のひもを引っ張るときの気持ちよさ」を体感していただくイベントとして企画し、単なる作品展にしないつもりでいました。だからこそ、出店・出演を予定していた人たちの大半は大幅見直しを受け入れ、趣旨に賛同してくださったのかもしれません。

第4章に続く

キセキのキセキ…「ふうせんまつり」を振り返る 第2章 Balloons Make Everyone Happyプロジェクト

第1章「構想」より続く

私自身が当時所属していた会社の通常業務などで忙殺され、「ふうせんまつり」の準備になかなか着手できずにいた日々が淡々と続いていた…7月6日…

異常なまでの豪雨が広島県内の大部分を襲いました。廿日市市や北広島町などごく一部を除き、広島県は大部分の地域が広範囲にわたって被災する状況になってしまいました。西日本豪雨でした。

私のところに、「呉市の子どもたちは花火も見れない、どこにも行けない、市民の憩いの場は軒並み災害対策拠点と化している、という状態で、笑顔を失っている…」という話が伝わってきました。私は風船と飲料水をもって呉に向かい、現状を見聞し、ボランティア活動を行いました。そして立ち上げたのが

2019Balloons Make Everyone Happyプロジェクト

でした。

私は構想段階にあった「ふうせんまつり」をこのプロジェクトの集大成に位置付けることにしました。そうして、2018年は晩秋まで、このプロジェクトを進めていきました。プロジェクトの詳細は上記リンクをご覧いただければと思います。

  

   

    

    

順序は一部入れ替わっていますが、このプロジェクトで制作した作品たちです。

このプロジェクトが一段落した2018年12月、ようやく実行委員をお願いしたい人たちに声掛けを始めました。一人一人にあって意思を確認しました。大半の方が私の説明する趣旨に賛同し、年が明けた2019年1月14日、成人の日に「ふうせんまつり」プロジェクトは本格始動したのですが…

第3章「暗礁そして再スタート」に続く

キセキのキセキ…「ふうせんまつり」を振り返る 第1章 構想

序章へ戻る

まず、この「ふうせんまつり」の当初の構想ついて、2018年の1月8日の記事「平成が終わるまでにかなえたい夢」から引用します。省略している部分はリンクをクリックしてご覧ください。そもそもなぜ私は「ふうせんまつり」を企画立案し、実行しようとしたのかはそこに書いてあります。

引用部分は青色、実際の「ふうせんまつり」は赤色で表記しています。

…そこで、私は考えました。

ふうせんまつりを平成が終わるまでにする→当初予定より約1か月延期となり、元号が「令和」に変わった2019年6月2日に実施された

場所…広島市内のレンタルスペースもしくはギャラリー→当初の希望通り、広島トヨペット株式会社様が運営するイベントスペース「CLiP HIROSHIMA」にて開催された

内容…以下のものを考えています。

1:エントランスのバルーン装飾→実際に制作した

2:風船のキャノピー+会場全体の装飾→キャノピーは「バルーンキャッスル」として、会場全体は「お花畑をモチーフにして」制作した

3:風船の壁画ステージ上に、親子で体験しながら作品を作る形で制作した(7と合体)

4:風船プール→バルーンキャッスル内に組み込む形で制作した

5:フォトバック(風船のスカートと帽子も用意、子どもさんは試着できる)→ファッションショーの一部に組み込まれる形で実現した

6:バルーンドレス展示(できれば試着も)→実現せず

7:夢を書き込んだ風船で壁画制作ステージ上に、親子で体験しながら作品を作る形で制作した(3と合体)

8:バルーン体験教室&「ふうせんへのおもい」講演会→実現せず

9:バルーングラフィック展示(もちろん展示スペースは床と天井にバルーンをふんだんに飾る)→会場内の大型ビジョンに数秒ごとに1枚ずつ映し出す形で展示した

10:会場全体を包み込むバルーンシャワー(スパークバルーンを多用、合計1000個程度降らせたい、もちろん紙吹雪入り)→合計約1500個、スパークバルーン5球、無数の紙吹雪入りとして、当初構想を上回る形で実現した

この10種類を一度に開催します。

期間…平成31年(2019年)3月下旬or4月下旬(3月30・31の両日もしくは4月27~30のうち連続する2日)直前2日間は制作現場をライブ公開します。→令和元年(2019年)6月2日実施、ライブ制作および制作体験は前日6月1日に実施した

出来れば、クラフト・ハンドメイド作品及びパン・クッキーなど手作り各種菓子類などの販売、さらに子ども向けミニコンサートも行いたいです。→出店者様22店舗、ステージ参加団体9団体・個人様が参加した

予算としては材料費だけでおおむね10万以内(原価ベース)を考えています。→ヘリウムガスを含む材料費が原価ベースで20万に達した

以上が私が考えている「ふうせんまつり」です。

このように、私の考えていた内容を超えて実現したのが、「ふうせんまつり~ゆめの国の宝さがし~」でした。

そして、こうも書いてありました。

…私は、「本当に風船で表現できるものは何だろうか…」と考えるようになりました。風船には、それ自身の持つやさしさ、美しさ、華やかさといったもののほかに、元気、希望、夢といったものがつまっています。そしてそれらが感動を生みだすのです…

…私は、風船が持つ美しさ、楽しさ、華やかさといったものにひかれ、そしてくす玉がはじけ、無数の風船と紙吹雪が舞う瞬間にあこがれ、バルーンの世界に入りました。そして創り上げた感動は数知れず、一度引退してもなお求められ、その結果再び風船に生命を吹き込み続けることができているのです。

その風船があったからこそ、今こうして私は生きていられるのです。

この「ふうせんまつり」は、その風船たちに感謝の気持ちを込めて、実現させたいと考えています。なぜなら、「風船のおかげで私は自分の人生を歩むことができたから」です。

これを記事として書き、アップしたのが2018年(平成30年)1月8日。

企画案を会場となるCLiP HIROSHIMAさんに出したのが2018年4月ごろ。

以後、私自身が当時所属していた会社の通常業務などで忙殺され、準備になかなか着手できませんでした。そんな日々の業務が淡々と続いていた…7月6日…

第2章へ続く

キセキのキセキ…「ふうせんまつり」を振り返る 序章

こんにちは。

2019年、令和元年、6月2日、日曜日。

広島市中区東千田町、広島大学跡地にあるコミュニティスペース、CLiP HIROSHIMA。

構想1年以上、準備半年以上、制作期間9日間、ついに「ふうせんまつり」が実施されました。

やり遂げました。

やりぬきました。

もう、関わったすべて人たちに、感謝しかありません。

ありがとう!

そして、その場にいたすべて人たちに

おめでとう!

この瞬間、私の頬を涙が流れました。

この直後、私は今回の運営の中核を担った3人の実行委員の方一人一人と抱き合い、喜びを分かち合いました。

会場全体を約1500個のカラフルな風船たちと無数の金銀の紙吹雪が包み込む…まさにその場にいたすべての人たちを祝福するかのように…

私が目指していた、私がつくりあげようとしていた、最高の瞬間が繰り広げられました。

そして、その場にいたすべての人たちに、いつまでも忘れることのない感動を刻むことができました…

まさに、私と、その場にいたすべての人たちの想いがはじけ、大輪の笑顔の華が花開いたのです!

…それから数日間、私は感動をかみしめながら、後片付けなどをして過ごす日々が続いています。いまだに余韻が残っています。ネット上に飛び交う絶賛の言葉、感動と感謝の言葉…

感動をありがとう

最高!!!

それだけ私が成し遂げたことは、すごいことだったのです。

作品たち、会場の様子などといった画像は、とにかくデータが山のようにあり、どこから手を付けていいのかわかりません。整理や編集などに2~3週間はかかりそうで、全部終わるのに6月いっぱいかかりそうです。

そういう意味でも、私はすごいことを成し遂げたのです。

とにかく、私は多くの人の心に感動と忘れがたき思い出を刻むという、偉業といってもいいほどのことをやり遂げたのです。

だからこそ、きちんと振り返る必要があります、今後につなげるためにも。

というわけで、

キセキ(奇跡)のキセキ(軌跡)…「奇跡」と「軌跡」が逆でもいいのですが…を、構想の段階から振り返りたいと思います。

第1章「構想」へ続く

私にとって平成は風船と共にあった

こんばんは。

ただいま平成31年4月30日午後7時過ぎです。

平成はあと4時間余りで終わります。

平成の始まりは静かでした。昭和が先代天皇陛下の崩御とともに幕を下ろし、日本国中喪に服している中での幕開けだったのです。とにかく自粛ムードに覆われていました。当時、このようなお祝いムードの中での平成の終わりをだれが想像できたのでしょうか。

一方、平成元年に広島の中の棚商店街で、このようなイベントが行われました。確か「GOGOひろしま春まつり」の一環として行われていました。その名も

ふうせんまつり

今私が取り組んでいる「ふうせんまつり」の原型なのです。

この「ふうせんまつり」、平成2年も同じ中の棚商店街で開催されました。この時私はアルバイトスタッフとして、風船を膨らませていました。

当時私は大学進学のため広島を離れることが決まっていて、広島最後の思い出とばかり、たくさんの風船を膨らませた記憶があります。ミス広島(今の「広島観光親善大使」)と一緒に風船をもって本通りを練り歩いた思い出もあります。その時の風船は今でいう配り用風船で、今では環境保護の観点からしてはいけないプラスティックバルブが付いた風船を空に飛ばすようなこともしていました。

その後しばらくして、一時期風船飛ばしが廃れました。理由は「風船を飛ばすと海洋動物が死ぬ」という小さい子どもさんの訴えが世間を動かしたからでした。しかし、実際にウミガメの死骸から検出されたのは、風船についていたプラスティックバルブで、一方でゴム風船は天然ゴム100%の生分解性のものに急速にとってかわられました。そして爆発の危険があった水素ガスは風船を膨らませるための使用は業界内で全面規制され、数年の間に風船飛ばしは復活しました。平成7年には日本で初のバルーンアートビジネススクールである「エミリーズバルーンアートビジネススクール」がスタートし、今も形を変えながら続いています。

かくいう私も1996年に「エミリーズバルーンアートビジネススクール」に参加し、翌1997年には第1回の「JBANコンベンション」に参加しています。以降の足取りはもう何回も述べているので今日は省略します。

以上は20年以上前の作品たちをピックアップしたものです。

当時はまだ20代でした。

こちらは平成最後の作品。

おそらく、来る「令和」の時代、私は平成ほど風船を膨らませることはないですし、そのつもりもありません。「ふうせんまつり」が私にとって、バルーンアーティスト人生の総決算みたいなものになるでしょう。そのつもりで、私は当初4月28日を予定していたのです。

「ふうせんまつり」ののちも、バルーンアーティストとしての活動は続けるつもりです。しかしそれだけでやっていくつもりは毛頭ありません。バルーンアーティストとして生きてきた20年余りの時代、その経験から次の世代に私が伝えられることはたくさんあります。

夢をかなえることの大切さ、夢を持ち続けることの大切さ…

これらを伝えることが今後、令和の時代で私がやっていくことだと思っています。令和の時代、私は「余生」だと考えます。昭和の時代、定年は55歳でした。私もその年齢が近づいています。令和がどのような形で終わるのか、今回と同様、生前退位という形で終わりを告げるのか、それとも昭和と同様、「崩御」という形で葬送行進曲とともに終わるのか、わかりません。少なくとも平成と同じかそれに近い期間続くと思われます。大正のように15年では終わらないと考えます。むしろ今回の時代の移り変わりが私の人生の中で最後になると私は考えています。仮に令和が30年続いたとして、私は80歳近くなっているはずですが、おそらく私はそこまで生きていないでしょう。令和の時代のどこか(おそらく令和末期{令和27~29年?}あたり)で私は人生を終えると思います。昭和に生まれ、令和で人生を終える…最初から最後まで生きた時代は平成だけだった、ということになりそうです。その平成の大部分を共に生きた…のが私にとっては風船だったのです。

風船好きのルーツは昭和にあった…平成でそれを形にした…今、「ふうせんまつり」という大きなプロジェクトに取り組んでいますが、これを成功させた時点で私の「平成」が完結します。そこから私は「令和」が始まります。

風船で伝えたい想い

こんにちは。

平成が間もなく終わります。新元号も「令和」と決まりました。「昭和」と響きが似ていて、いまだに「りょうわ」と「令」を「大宝律令」の「りょう」から読んでしまっています。しかし、出典が全く異なるらしいです。私は「昭和への逆戻りでは」と一瞬思いました…

平成が終わるまでに、このブログの記事はもう1回だけアップしようと考えています。なぜなら、私にとって、

平成は風船と共にあった

と考えていますが、それについては平成が終わるまでに詳しく述べたいからです。

さて、とあるバルーンアーティストが作品を制作している現場を目にする機会がありました。この方は世界トップレベルのバルーンアーティストの方なのですが、その姿に私は元気をいただきました。

私はことあるごとに、

風船に生命を吹き込んでいる

という表現を使っています。風船に生命を吹き込む…とはすなわち、

自ら生命を吹き込んだ風船たちが、その使命を果たすために世に出る

ことを意味します。その風船たちに生命を吹き込むのが、私たちバルーンアーティストの仕事なのです。

私の制作した作品たちを見て、よく言われるのが

元気をいただけた

ということです。こういわれると、私の心の中でくす玉がはじけます。

それだけではありません。バルーン演出は一瞬一瞬が勝負です。失敗すると「返還欠場」です。

※「返還欠場」という言葉はたびたび出てきますが、今一度改めて解説します。これはもともとボートレース(=競艇)の用語で、スタートを失敗する(=「スタート事故」と呼ぶ)と当該選手は即退場となり、当該選手に対する賭け金を全額返さなければいけなくなる、すなわち「返還」=全額お返しする、「欠場」=最初からなかった扱いになる、というルールになっていることから、こう呼ぶようになったそうです。バルーン演出で失敗することを私は「演出事故」と長年呼んでいて、やはり代金をお客様に返すことになり金銭的にも大きな損失になるのです。さらに、「事故」という言葉から非常に悔しく、つらい思いをします。

その代わり、成功すると

天に舞い上がる、体中を突き抜けるほどの快感を覚える

のです。この時、多くの人たちの心の中にいつまでも残る感動を生み出すのです。そういう感動を生み出すことができるのが私なのです。

もう何度も述べているのですが、私はくす玉がはじける瞬間にあこがれ、この世界に入りました。まだ20世紀だったころ、「くす玉バルーン」を生み出し、世に送り出しました。インターネットで通信販売し、全国へ数多くの「くす玉バルーン」を届けることができました。2000年から2013年まで、10年以上の長きにわたり、続きました。

2012年、うつ病を発症し、2013年に旧Y’s Dreamを廃業しました。うつ病の治療と検証の過程で、発達障害が判明しました。さらに両親が厳しい躾を受けて生育した結果、私は「虐待」レベルの暴力を伴った躾を受けました。私が廃業を決断したのも、自らを犠牲にして両親を安心させ、心の平安を取り戻すために下した決断だったのです。

しかしながら、私は風船を捨てることはできませんでした。すべてを捨て去ろうとしても、どうしても風船が残ってしまいました。すべてを捨て去ろうとして、最後に残ったものが、その人の本質になる、といわれますが、私にとってそれが風船だったのです。私の両親はそれを捨て去れ、と命じましたが、両親の命ずるままにそうしていたら、全くスカスカ、パサパサの人間となり、無駄に年を重ねただけの単なる「子供部屋おっさん」になっています。そうなってもよい、と私は考え、「論語」をはじめとした儒教の本を読み漁り、自己洗脳を試みましたが、駄目でした。

私は「福祉関係、とりわけ同じ障がいのある子どもたちに私の経験を生かすことができるかもしれない」と考えるようになり、その結果、2015年にとある福祉事業を営む企業と出会い、3年余りその会社にお世話になりました。この会社ではいろいろな出会いがあり、経験もさせていただきました。そして勉強になりました。

私は「障がいのある子どもたちや引きこもり、ニートになっている若者たちに、私の経験を生かすことができるのではないか」という考えを引き続き持っています。その一方で、こう考えるようになりました。

「おめでとう」ということができる自分になっていた

正直、つい数年前までは私は「自己否定」の塊でした。どんなに素晴らしいことを自分が長年続けていたか、気が付きませんでした。ただただ上ばかり見て、見えない頂点を目指していたのです。その自分が、自分のやってきたことがどれだけすごく、素晴らしいことだったのか、ようやく最近になって気が付いたのです。これ自体「自己肯定」でした。そうやって自己否定を克服できた自分に「おめでとう」という言葉を投げかけることができるようになったのです。

これこそが「私の風船で伝えたい想い」なのです。

くす玉のひもを引っ張るときの気持ちよさ、それがすなわち自分に対して「おめでとう!」といえることに通じるのです。その喜び、感動を一人でも多くの人に伝えていくのが、今後(=令和)自分がすべきことだと思うのです。

私のお気に入りの瞬間たち

私のお気に入りの瞬間たち

congratulations!

congratulations!

 

私が風船に生命を吹き込み続ける理由

こんばんは。

今日は私の裏サイト「(新)ふうせんだいすきおっさんのひとりごと」に関連した内容です。

私は、どうやら生まれつきの自閉症に伴う発達障がいに加えて、親の育てられ方に由来する「愛着障害」を併発しているような気がしています。

簡単に愛着障害の症状を並べてみます。(ソウス

  • 特定の人と親密な関係が築けない。
  • 恋愛で恋人が離れていかないようにわざと相手を困らせるようなことをしてしまい、失敗する。
  • 人と親しい関係になるのがわずわらしいと考える
  • 他人からの評価を異常に気にする
  • 自分が嫌いで自己肯定感が低い
  • 人に頼ったり甘えることができない
  • 他人にSOSを出して助けを求めることができない
  • 自分の気持ちは押さえて相手ばかりに合わせてしまう
  • 拒否されたり傷つくことに敏感
  • 嫌われないかといつもビクビクしている
  • 見知らぬ人にも近寄りすぎる
これらは幼い頃に親から愛情を与えられなかった経験が、他人との関係性にまで影響を及ぼしている例です。

かくいう私ですが
赤字は強い傾向を示しています。
橙字はややその傾向を示しています。
紫字はかつてその傾向が強かったですが、最近やっと克服できたものです。
緑字はどちらかといえばそうではないです。

赤字の症状には今も苦しめられています。その上にストレスが原因の「異食症」まで発症しています。

ここで注目したいのが、紫字で表示した

自分が嫌いで自己肯定感が低い

ということ。

同じソウスには、「自分がこうなったと自覚している場合の対処法」もあります。

どんなに小さなことでもいいので、“自分が認められる体験”を今から積むのです。
幼いころに得られなかった“人から大事にされる、認められる”という経験をこれから積んで、自分に自信を持てるように回復させるしかないのです。

私の場合、「風船」がまさに「自分が認められるための体験を積む手段」となったのです。「風船」がなかったら、今頃自ら命を絶ってこの世に存在していないか、親を殺して塀の中にいる(あるいは国家によって殺処分されている)かもしれなかったのです。

私はこれからの人生、私と同じような苦しみを味わう子どもたちを少しでも減らすことに尽力したいです。そのために私は今後もバルーンアーティストとしての活動を続けます。