くす玉のひもを引っ張る気持ち良さ

こんにちは。

  

プライバシーの関係で画像を加工させていただきましたが、どちらの顔もすごい笑顔です。

とりわけバルーンクラッカーのひもを引っ張った女の子の表情は、まさにはじけるくす玉そのものともいうべき、最高の笑顔でした。

こちらもバルーンクラッカーを実際にはじけさせた時の様子。

そしてこちら。

この中には1つあたり約200個のハートのバルーンがいっぱいつまっています。同じ日に同じ披露宴会場で昼の部、夜の部と2組の結婚披露宴があったので、昼の部の1組分を膨らませた後に撮影しました。もう一つの外側を膨らませる前のボコボコのバルーンは2組目の夜の部用に準備していたもので、この写真を撮影後一旦倉庫にしまいました。

※別の日に撮影したイメージ画像です

私が一つ一つの風船たちに吹き込むもの…それは私と、その場にいるみんなの想いであり、それによってもたらされるのは、最高の笑顔と、いつまでも心に残る感動なのです。

私はくす玉のひもを引っ張った経験はないのですが、スパークバルーンのひもをタイミングに合わせて引っ張ったり、遠隔操作のスパーク装置のボタンを押したことは何度もあります。さらには新郎新婦と無数の風船が入ったドリームバルーンという特殊なバルーンのひもを引っ張ると同時に遠隔装置のスパーク装置のボタンを押したということさえあります。

これがその演出です。

その時の心臓が飛び出そうなほどのドキドキ感はすごいです。誤ったタイミングでボタンを押してしまわないか、遠隔無線の場合チャンネルや電源は間違ってないか…タイミングを間違えると、それまでの努力が水泡に帰してしまいます。「返還欠場」です。

タイミングを間違えたのは1度しかなかった(これは披露宴を指揮していたウェディングプランナーのキュー出しミスが原因だった→たまたま予備があり、別の形で同じような演出ができるよう大急ぎで用意し、2回分の演出料金を私は請求した)のですが、ボタンを押してもバルーンがはじけなかったという「返還欠場」は、何度かありました…その時のつらい思いはお察しください。

それだけではありません。その一瞬のために、何時間もかけて準備を私はするのです。流した汗と涙は計り知れません。

そうして生み出される最高の感動の瞬間。

会場中にはじける笑顔と広がる大歓声。

このとき、私の心の中でも、くす玉がはじけるほどの達成感を味わいます。

その時の気持ち良さといったら、何と表現したらよいか、わからないほどです。いまだに言葉が見つからない、そんな気持ち良さなのです。

このことについては、何度も書いていますが、いまだにわかりません。

それくらいすごい達成感なのです。

今回、ご縁があって「わーくしょっぷフェスティバル」なるものに参加させていただく機会をえました。そこで体験していただきたかったものは

風船でくす玉を作る、ということ

風船のくす玉を実際にはじけさせる、ということ

この二点でした。

その中で達成感と感動を味わい、自信を身に着けていただくことに主眼を置きました。

結果は大好評でした。

これからも私は、私とその場にいる人たちの想いを風船に託して、生命を吹き込み、くす玉としてはじけさせることによって、たくさんの人にいつまでも心に残る最高の感動と最高の笑顔を創り出して、夢と希望と幸せを届けていきたいです!

はじける!

想いよはじけろ!

好き!愛してる!という想いを夢にし、それをかなえるために…

こんばんは。

ぶっちゃけ言います。

私は、1996年にバルーンアートスクールに参加し、1997年に腰までつかるくらいの風船と紙吹雪のシャワーを実体験しました。この感動をいかにして社会に還元するか、という想いからバルーンアーティストとしての活動を始めました。

ただ単に、風船が好き、ということが原点ではありましたが、これらの経験をいかにして社会に生かすか、地域に還元するか、という想いが旧Y’s Dreamの出発点でした。

 1997年、最初の私の作品です。

今にして思えば、これは一種のタブーを犯していました。

どこがおかしいかはよく見てください。というか、本当に始めて間もなかったが故、そしてそこまで気配りができる真のバルーンデコレーターが本当にまだまだ少なかった頃の作品です。とある方から指摘を受け、私も納得しましたが、本当に勉強になりました。

答えは…「コー× コピン× 演奏会」です。

×の部分が風船で隠れていたのです。

私は納得しました。そして、この経験は今でも生きています。

この作品から、私は2012年まで、15年にわたって一気に駆け抜けました。

その間に生命を吹き込んだ風船の数、一体いくつあるのかわかりません。

ただその無数の風船たちが、多くの人たちの心に感動を残したのは間違いありません。

だからこそ今、私は未来を担う若者たちに、夢を語ることができるのです。

この年、私は大分県由布院を訪れました。

この地でたくさんの風船を飛ばしてみたい…

3年後の2000年4月、それは現実のものとなりました。

そして2010年までほぼ毎年、私は由布院を年に一度訪れ、バルーンリリースを行いました。(実際は長年の伝統の祭りであった「由布院温泉まつり」で由布院温泉で宿泊できる券を付けたバルーンリリースを例年行っており、そのバルーンリリースを毎年担当するようになった…佐田岬半島(伊方原発の近く?)・宇和島・今治等、愛媛県内で複数回拾われたらしい。)

その時の様子です。

もう17年も前の写真です。

2003年

2004年

2008年

2010年から2011年

1回目公演クライマックスエントランスアーチ披露宴会場ウエルカムゾーン

2015年

エントランス想いがカタチになり、そしてはじける

2016年

サプライズの風船が…2017年8月 2017年8月

2017年

もちろんこれらはほんの一部。

まだまだ私は風船に想いを託し、風船に生命を吹き込み続けます。

そして、その姿こそが、多くの人の心に感動を残し、夢と希望と元気をもたらすことができるのです。

はじける!

はじける!

このようなくす玉(すべて私が生命を吹き込んだ風船たち)のごとく、はじける想いを日々届けていきたいです!

 

 

 

 

 

 

あれから4年…まさかこうなるとは…

こんにちは。

2013年8月26日の投稿「最後は自分らしく」

2013年8月24日の投稿「恥ずかしい…でも今だからアップできる」

8月26日の投稿では「もう悔いはない」と、8月24日の投稿では「もう全身に稲妻が走る爽快感を味わうこともない…」という言葉があります。

この時点で私は、風船から足を洗うつもりでした。もう2度と風船を膨らませることはない、と考えていました。

この投稿の数日後、私は南九州に車を走らせていました。鹿児島の先祖に報告するのと、宮崎の知り合いのバルーン業者さんに機材を売却するためです。その際、霧島神宮の賽銭箱に、旧Y’s Dreamの看板を一切合切投入してきました。

2012年5月に鬱を発症、9月ごろに少し落ち着き、再開の方向性を一度は模索しました。同じ年の11月には、私しかなしえないようなバルーン演出を手掛け、成功させました。

しかし、同じ年の12月ごろから、国際情勢の変化とシェールガス革命の影響などが重なり、日本国内にヘリウムガスが入ってこない「払底」が発生。これをきっかけに、前年の東日本大震災から変化しつつあったバルーンの立ち位置の方向性の変化が決定的となる一方、払底は長期化。さらに家庭の事情も重なり、「これ以上続けると深刻な事態になる」と判断、

完全引退・転進再就職

の方向に向かうことにしたのです。

そのため、私は徹底的に自分の思考を変える訓練を自分自身に課したりもしました。バルーンの経歴を隠した職務経歴書や履歴書を作成し、転職コンサルタントに相談したこともありました。ある転職コンサルタントは「13年間ホストをやっていたのと同じ」とまで言い切りました。バルーンアーティストとしての自分を「黒歴史化」することを試みたのです。(当時制作したY’s Dream作品集も、歴史の中に閉じ込めて封印したい、その一方で私が残した遺産を他の人に自由に活用してほしい、という想いから制作したものです)

ところが、「黒歴史化」は失敗しました。

2014年春、趣味としてのバルーンを細々と再開。一方で、店舗のバルーン装飾の依頼なども来るようになる。

2015年、「精神障がい・発達障がいに苦しむ人たちが社会参加するきっかけづくりにバルーンを活用する」ことを目標としたプロジェクトを立ち上げる。このプロジェクトが現在私が所属している会社に引き継がれて、今に至る。

最新の作品集タイトル

画像をクリックすると、2014年以降の作品を見ることができます。

結局、私は

本当に風船が好きで、風船を愛し、その風船に生命を吹き込むことによって自分を表現し、その生き様が多くの人を元気づけているという事実

に直面していたのです。

その私が生み出した、新たな表現手段

バルーングラフィックタイトル

これも画像をクリックするとご覧いただけるのですが、これをベースにした私の生きざまをダイジェストにして、精神障がいや発達障がいに苦しむ人たちを元気づけるために制作された本が

くまさんのげんきだま2016表紙

くまさんのげんきだま、という小冊子でした。

これはすでに多くの人に行きわたり、熊本県内のとある放課後等児童デイサービスでは、教材に使っていただいているほど、多くの人たちに夢と感動と元気を与えています。

そして今、多くの人たちに夢と感動と元気を分け与えることができています。まさに

くす玉のような存在

になっています。

私は生まれつきの自閉症を抱えています。いわゆる「アスペルガー症候群」と呼ばれる典型的な症状が出ています。加えて母親が精神疾患を抱えていて、その原因が母親が受けてきた厳しすぎる躾に原因があるとみられています。そして両親はいわゆる「過干渉」型の「毒親」でした。

私は「道に外れた親といえども、泣いて自らをむなしくして従うべき」という儒教の教えを根拠にして、自らをむなしくする努力を積み重ねてきました。しかし、その努力は実ることはなく、むしろ正反対の結果をもたらすことになりました。

何が起きたのか…「自己否定の塊」だった4年前からは想像もつきませんでした。

なぜ両親、とりわけ母親は「毒親」になってしまったのか、その原因はどこにあったのかを探求することから始まり、自分の在り方を整理するために母親の故郷である鹿児島にことあるごとに何度も足を運びました。旧Y’s Dreamの看板を置いてきたのも、霧島神宮でした。

旧Y’s Dream時代、自分で自分をほめることをめったにせず、「返還欠場」という厳しいルールを自分に課してストイックに追い込んでいました。完全主義者として、自分自身を極限まで追い込んでいました。その結果が破たんでした。

今、自己否定を捨てた私は、一転自己肯定感に満ちています。だからこそ

くす玉のような存在

を唱えることができ、実践できているのでしょう。

自分が創り上げてきたもの、自分がなしえてきたことがどれだけすごいことだったのか、一度引退して初めて知りました。あれだけどっぷり使ていた風船の世界から一度離れてみて、客観的に見て初めて自分がしてきたことのものすごさを知ることができました。

そのような経験をしているからこそ、今、多くの人たちに夢と感動と元気を与えることができるのかもしれません。

大観峰から望むくじゅう

大観峰から望むくじゅう

大観峰から望む外輪山

大観峰から望む外輪山

2013年8月、私は阿蘇の外輪山を駆け抜けて椎葉を経て霧島神宮・宮崎へ(2013年5月も阿蘇を訪れていました)。

2017年8月、またしても阿蘇を訪れました。

2013年8月

2013年8月

2013年8月

2013年8月

2017年8月

2017年8月

2017年8月

2017年8月

ちなみに画像はありませんが、この披露宴では最後のクライマックスに約250個の風船が舞い降りるスパークバルーンシャワーも行いました。すべてが一つの作品としてセットになり、多くの人を感動させることができました…が、「焼きが回っていました」。

 

 

見る人、接する人を元気にするような仕事をしたい

こんばんは。

今日は風船の画像ではありません。

大観峰から望むくじゅうと朝日

大観峰から望むくじゅうと朝日

南阿蘇から望む阿蘇五岳

南阿蘇から望む阿蘇五岳

阿蘇山の画像です。

ご存知の通り、阿蘇周辺は5年前、2012年には大水害に見舞われました。これだけでも大変つらいのに、2016年にはもっと悲惨な出来事が…熊本地震が発生しました。

画像から見える範囲では、度重なる災害から着実に復興が進んでいるように見えますが、ところどころ手つかずのままの場所がありました。特に阿蘇大橋周辺は壊滅状態で、国道57号線はトンネルを掘って移設、阿蘇大橋自体も移設して再建するそうです。

他にも今回、道中で先日の集中豪雨の被災地を通過しました。

それはさておき、私はある目的があって阿蘇の方へ向かったのですが、阿蘇はあくまでも「プラスアルファ」。阿蘇の反対側、福岡県筑後地方のとある場所に向かったのです。

そこで私が体験したことは、驚きに満ちていました。

その目的地は一つの新しい小さなレストランだったのですが、このレストランは30年近く、すぐそばの山の中で長年営業を続けてきました。2012年の大水害の際に、店舗を流され、その後再建したのですが、今年になってハムなどの燻製工房を残して週末のみの営業とし、レストランを実質麓にある古い蔵に移したのです。蔵をリニューアルして、今年の夏に営業を開始しました。

そのレストランのシェフが、女性なのですが、とあるきっかけで私と非常に親しくなったのです。

出会いは昨年秋、別府鉄輪温泉の「蒸し足湯」でした。彼女は別府を初めて訪れたとかで、何度も別府を訪れていた私は鉄輪温泉の共同湯を案内、その後時々連絡を取り合う仲になりました。

彼女はシェフを目指して、昨年名古屋から筑後地方の山中にIターンしてきたのです。

有り余るほどの自然に囲まれて、自ら理想とする料理を目指しています。

その彼女、私の風船に対する思いに共感したようです。…何が彼女と私を結びつけたのでしょうか…

共通するものは、

感動を創り出す、という想い

でした。

私は「一度彼女がこのレストランで働いている姿、そしてそのレストランを訪れてみたい」と強く感じました。

そして先日。私はSNSでこのレストランがうきは市の里の蔵に降りてきたという情報をつかみ、広島から車で片道6時間かけて訪れました。

そこで目にしたもの…

リーダーである彼女を中心に、4人の若い女性たちがそれぞれの持ち場で働いていたのですが、

4人とも笑顔が素敵!輝いている!

聞くと、4人ともIターンらしい。神奈川や秋田から、自ら輝ける場を求めて筑後うきはへ移住してきたのです。もう一人も福岡近郊からの移住者。

私は元気をいただきました。そして別れ際

「いつかこの店を風船でいっぱいにしよう」

という話をしました。

カフェ・バル 溜

イビサスモークレストラン

上記リンクでどのような店かをご覧ください。

その後私は、天ケ瀬温泉の複数の露天風呂に入った後車中泊し、阿蘇の大観峰で朝日を望んできました。

旅日記はここまでです。

ここで言いたいことは何か?

私が風船に生命を吹き込むことによって、どれだけの人に夢と感動を提供することができるのか

そして

私が吹き込んだ風船たちが、どれだけの人を元気づけることができるのか

そのような姿勢で風船に長年接してきた結果、今の自分があるような気がするのです。

…阿蘇の大観峰を訪れたのは23年ぶりでした。23年前、秋晴れの大観峰から展望した阿蘇と久住の燃えるような景色は、忘れられないほどの絶景でした。それから23年、自分が生み出してきた感動と夢は数知れません。

大観峰から阿蘇五岳を望む

大観峰から阿蘇五岳を望む

感動を生みだすためには、自ら感動する心を持ち続けなければいけない…何千年も変わらない大自然が生み出した感動の力によって、新たな感動の瞬間を創り上げる力にすることができる…

Balloons make Everyone Happy! 2016バージョン

Balloons make Everyone Happy! 2016バージョン

 

ぱんぱかぱーん!とはじけたい!

こんばんは。

今日の見出し、何だか

頭を割ると風船と紙吹雪が出てくるの?

みたいなタイトルです。

これは先日開催した「夏休みバルーン教室」の様子。

見ていただければわかるか、と思いますが、これまでの一般的なバルーン教室とは大きく異なります。

私の風船に対する想いがぎっしりと、それこそ「くす玉バルーン」のように詰まっていて、その想いがはじけるというイメージで創り上げた内容になっています。

このようなことができるようになるとは、

作品集表紙(2013年8月制作)

作品集表紙(2013年8月制作)

4年前からは想像もつきませんでした。というか、4年前、2013年の今頃、私はもう風船から足を洗うつもりでこのような作品集を作りました。当時の私はキャリアリセット、キャリアチェンジを目標としていました。どのようにしてこれまでやってきたことを無にして、全く違う自分に変わるか…

ところが、それはできませんでした。

結局できたのは、全く違う形で、風船に対する想いを通して、若者たち、とりわけ発達障害や自閉症などで夢を見失った人たちに夢と希望を与えるということでした。そのような使命を帯びて、今の会社で働かせていただいている、というのが実情です。

その結果、

風船に対する想いを積み重ねるだけのその生き様によって、多くの人を元気づけることができる

という、おそらく日本中探しても数えるほどしかいないような存在になってしまいました。

というか、

それだけ凄いことを私がしていたということに、10年以上気が付いていなかった

のです。

実際、先述の4年前に制作した作品集(画像をクリックするとその作品集がご覧いただけます)は、過去の私がしてきたことを振り返るために制作したつもりなのですが、結果わかったことは、

自分のしてきたことがいかにすごく、かつ素晴らしいことだったのか

でした。

その経験を踏まえ、他方では様変わりしたバルーン業界の動向も踏まえ、これからどうすべきか考え抜きました。

その中でも、様々な感動を生み出す機会に恵まれました。それらの作品は、

最新の作品集タイトル

上記バナーをクリックするとご覧いただけるようになっています。

確かに私は焼きが回り、技術面では到底今のバルーンアートの最先端には及びません。しかし、それでもこれだけのものを創り出せるのが現実なのです。

それだけではありません。

はじける想い

はじける想い

のようなバルーングラフィックと呼ぶ、私が創り上げた作品だけで1枚の絵ができ、それ自体の作品集までできているのです。

そして、今や私は目指していた、

くす玉のような存在

になりつつあるのです。

私が生命を吹き込んだ風船たちが、多くの人を元気づけているのです!

パンパカパーンとはじける想い

パンパカパーンとはじける想い

なぜ「パンパカパーン」を表題にしたのか、というと、

自分の生き様がそれこそくす玉のごとくはじけると同時に、多くの人を元気づけられるという姿を音で表したら、これになったからである。

自らの手によって生命が吹き込まれる風船たちによってもたらされる感動

その風船たちによって生み出された感動を自分の言葉で伝えられる私

そしてその姿によって元気づけられる人々…

そういう存在に自分が気が付いたらなっていた…これからもそういう生き方を続けていきたい

自分をプロデュースするということ

こんにちは。

先日、昭和雑貨を集めたというカフェを訪れる機会がありました。

昭和といっても高度経済成長期からオイルショックのころにかけて、さらに80年代前半までのものが多く、バブル時代の少し前ですから、私にとっては懐かしいものがたくさんありました。

このカフェで「くす玉」が話題になりました…そうです、「くす玉」は昭和40年代後半から平成初期にかけて、カラーテレビ映りがいいこともあって、華やかな演出の代表格だったのです。

仮に今この番組があったらどのような効果になってたのだろうか…

以下はWikipediaより転載です。
10問正解してゴンドラが頂点に上がるとファンファーレが鳴り、解答者席上(天井)に吊るされていたくす玉が割られて、大量の紙吹雪と風船(色は赤・橙・黄・緑・青の5個)が降り、日航で行く「夢のハワイ旅行」と賞金10万円獲得となる。なお降ってきた風船は出場者あるいは観客の子供たちがもらうことができた。
全ての解答者席上にくす玉が設置された1973年12月以降のくす玉割りは、同じロート製薬提供でTBSの『クイズダービー』同様、スタッフの機械操作で行われていた。
紙テープは入っていないが、新井たかし著の「クイズで儲けろ」に宝田明が10問正解・ハワイ旅行達成の瞬間で紙吹雪を浴びる場面の写真には紙テープが入っていた。
クイズ番組で最初にくす玉・紙吹雪・風船・紙テープの演出を始めたのがこの番組である。ちなみにテレビ番組全体はNHK紅白歌合戦がさきがけである。
(中略)
紙吹雪が降った後、10段目に上がったゴンドラに飛行機のタラップに相当する階段を寄せ、当初は日航の客室乗務員が解答者にフラワーレイをかけて、エスコートした。その際、その階段を客室乗務員が上がり、ゴンドラの扉を開けて、10問正解者を出迎え、専用席でシルエットゲストから副賞の賞金10万円の目録が手渡された(但し、前半(シルエットゲストがいない時)で10問正解を達成した場合は小池が手渡す)。ゴンドラが色分けされてからは、テニスウェアを着たアシスタントがレイを掛けにいくようになり、専用席で日航の客室乗務員が目録と航空バッグを渡す形になった。
(中略)
10問正解・ハワイ旅行獲得時に割られるくす玉は当初1つだけで、10問正解しそうな解答者のゴンドラ上に来るよう後ろでスタッフが操っていた。しかし、収録中スタッフが誤ってセット上にぶつけて割り、紙吹雪と風船を降らせてしまったため、収録が一時中止となったことがあったことから、その後は2つ設置された。しかしながら、1973年11月25日放送の「ヤングレディ特集」の大会で初めて10問正解者が3人も出たために、3人目にはくす玉が用意されなかったというハプニングがあった。これを機会にすべてのゴンドラ上に設置されるようになった。
小池時代に放送中、問題を読んでいる時に何かの拍子で誤って全てのくす玉が割れてしまい、紙吹雪と風船を降らせるハプニングもあって、小池がお詫びをしたこともあった。くす玉を割るための機械にトラブルが発生して、くす玉を割るボタンを押していないにもかかわらず、機械が割れるという信号を出して割れてしまったことが原因と思われる。くす玉を割るための機械があること自体が余り知られていないものであるが、『クイズダービー』でも使われていた(『クイズダービー』も参照)。
紙吹雪が大量のため、10問正解・ハワイ旅行達成者の両隣の解答者が浴びることも少なくなかった。このため頭や肩等に紙吹雪が付着したままの状態でクイズに参加していた。
風船が隣の解答者に落ちたり、ステージ上に落ちたりすることもあった。
1978年8月27日放送の「15周年記念全国大会・中部甲信越地区大会」でも、下に記した通り隣の解答者に落ちた風船が割れるハプニングがあった。
⑤の解答者(女性)がラッキークイズで10問正解を達成(結局2人目の10問正解達成者が出ず、決勝進出も決定)、くす玉が割られた。その後、前半に2問誤答でお出となった④の解答者(男性)が復帰。風船が引っ掛かっていたのを知らずに解答して正解、風船が割れる音に驚いた。そこで小池が「⑤の方の風船が割れました、ごめんなさい」と謝罪した。
右端の⑥の解答者(男性)のゴンドラにも風船が降り、1回目の誤答時までそのまま置かれていたことと、10問正解・ハワイ旅行を獲得していないのに大量の紙吹雪を浴びたこと。風船は1回目の誤答後にアシスタントが除けたが、紙吹雪は終盤に2問誤答でお出となる際に慌てて払い落とした。この理由は本来ならば⑤の解答者のくす玉が割れ紙吹雪と風船を大量に浴びなければならないのに、右隣にいる⑥の解答者のくす玉を誤って割ってしまったのである。
10問正解を達成したにもかかわらず、くす玉が割られず、紙吹雪と風船が降らなかったこともあった、逆に10問正解を達成していないにもかかわらず、くす玉が割れ、紙吹雪と風船が降ったこともあった。
なお、紙吹雪は小池時代の頃、細かく刻んでいた。そのため、小池は「あとで払い落として下さいね」と言っていた。
(引用ここまで)

結構いろいろあったようですね…

1980年ごろといえば、先日記事にした「パネルクイズアタック25」やこの「アップダウンクイズ」のほかにも、「世界一周双六ゲーム」や「三枝の国盗りゲーム」や「クイズタイムショック」など、視聴者参加のクイズ番組が花盛りの時代でした…パネルクイズ25は今も続いていますが、それ以外は1986年春を境に無くなりました…。このころの最高峰が「アメリカ横断ウルトラクイズ」。私も出ようか、と考えましたが、東京ドームが遠かったのでやめました…

よく考えたら、「タイムショック」と「ウルトラクイズ」以外は大阪で収録されていたのですね…

2011年5月の旧「ふうせんやさんのひとりごと」から持ってきました。ちなみにここで論じられていたのは、「アップダウンクイズ」のことです。

その続きがこの記事でした。

そこから引用

くす玉が

キャノン砲

バルーンドロップ

スパークバルーン

に進化したのは今の状況を見ればわかるでしょう。

(中略)

こうしてみると、

くす玉の演出は古くて新しい

ということなのかも…

いずれ近いうちに、

どうしてくす玉がはじける瞬間は感動を呼ぶのか

ということを述べなくては…

引用ここまで

とあるが、最近になって、どうもその答えが見えてきたような気がします。

先ほどの記事を書いたのが2011年5月ごろのこと。このころ、私はまだ突っ走っていたころでした。東日本大震災が起きて、社会の流れが少しずつ変わり始めていたのですが、その変化に気が付かず、少しずつY’s Dreamが傾き始めたころでした。

その後、鬱発症→発達障害と毒親の問題に直面・ヘリウムガス払底(ほぼ同時期)→引退…という経過をたどり、風船から離れた時期がありました。ところが、あるきっかけで復帰することになり、今に至ります。

復帰後はこれまでとは異なった展開をしていますが、今までと同じことをしても失敗を繰り返すだけだと考え、違う側面から風船にアプローチしています。

その中で、この「ふうせんでつたえたいこと」や「バルーングラフィック」を制作し、これを障がいのある人たちに自信を身に着けさせるために生かそうと企画して制作したのが「くまさんのげんきだま」です。これを制作したことによって、自分の目指すべきところがはっきりしたのは事実です。

すでに多くの方がこの「くまさんのげんきだま」を手にし、読まれているようです。先日は特別支援学校の研修会の教材にまでなりました。

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私が常日頃言っている

くす玉のような存在

「くまさんのげんきだま」

「バルーングラフィック」

「ふうせんでつたえたいこと」

全てに通じるものがあるのですが、これを私はすべて自分で作り出しました。その過程で、まさに私はその存在に近づくことができたのです。

これらを見るだけで、

元気が出た

生きる力になった

という声をたくさんいただきました。そういう声を聞くと、私の心の中で、また一つくす玉がはじけるのです。

先日も

「げんきだま」はすなわち「くす玉」のこと

というようなことを述べましたし、

くす玉を見つけ出すのもはじけさせるのも自分、周りにいる人たちはその手助けをする役目がある

というようなことも述べました。

もう一つ言わせていただくと、

パンパカパーンとファンファーレを鳴らしてあげるのも周りの人の役目だと思います。

先日、私はこのような動画を制作しました。

この動画、前半のスパークバルーンがはじける瞬間にファンファーレを合わせました。一方後半のそれは、オーディオをそのままにして、会場の歓声をそのまま臨場感がある形で伝えています。

この動画も私が自分で制作しました。もちろんすべて、私が手掛けた感動の瞬間や作品で構成されています。

何を隠そう、この動画、私の風船に対する想いをそのまま形にしたものなのです。

この動画を見て、皆さんに元気と希望と夢を持ってほしいというのが私の願いなのです。

一連の小冊子、「バルーングラフィック」作品、そしてこのショートムービー、すべて

自己表現の一種

であり、セルフプロデュースにつながっているのです。その中心にあるのが

くす玉のような存在

というキーワードなのです。

私が生命を吹き込んだ風船たち、そして、私の生き様が、多くの人の心に残り、夢と感動と元気を分け与えることができる存在…それが「くす玉」であり、私はそうなりたいのです。

笑顔にはかなわない

こんにちは。

バルーングラフィック個展と風船で作る楽しい空間イベントは、諸般の事情で、この夏は開催を見送ることにしました。

その代りに制作したのが

ふうせんでつたえたいおもい

ふうせんでつたえたいおもい

画像をクリックすると、新しいウインドウが開いて、中身をご覧いただけます。50メガありますので、光もしくはWifiでお楽しみください。

この「ふうせんでつたえたいこと」と「バルーングラフィック作品集」をドッキングさせたもので、より鮮明に楽しむことができます。

また、動画版も制作しました。

正直言います。

どっちも

作っているだけで、すごくテンションが上がりました!

いずれも音楽構成を含め、私自身の作品だけで構成したものです(BGMなど一部素材は除く)。

バルーンの作品及び演出はすべて私自身が創り出した作品です。

これだけの風船に生命を吹き込み、多くの感動を生み出してきた(今も生み出し続けている)ことだけでもすごい(というか、そのこと自体がすごい、ということに最近ようやく気が付いた)のですが、それらを再構成してまた新たなるものを生み出し、それが多くの人を元気づけているということ…

本当に好きなことに出会い、それをきわめたからこそ生みだされる笑顔…

つい数年前まで、私は

笑顔が消えていました

私がしてきたことがいかにすごいことだったのかが分からなかったのです。というより、

もっとすごい人がいる

自分はまだまだだ

という考えで10年以上突っ走り、ひたすらハイパフォーマーだけを目指し、挙句の果ては鬱になってしまいました。

鬱からのリカバリーに取り組む中で、

自分は生まれながらの自閉症で、その気質は生涯変えることができない(=いわゆる「アスペルガー症候群」=発達障害)

両親、とりわけ母親の子育てに誤謬があり、その原因は母親自身ではなく先祖代々にあった(=いわゆる「毒親」の世代間連鎖)

という現実に突き当たり、

人間として基礎的、根本的なところに問題があった

これでは努力が実るはずはない

ということが分かったのです。

それを乗り越えるには、自分で本当に好きなものを見つけて、それを極めるぐらいしないといけないのです。

だから私は

もし風船に出会うことがなかったら、私は今頃この世にいない(=自殺している)か、塀の中(=親を殺して刑務所に収監される)だったかもしれない

とさえ思っています。

その風船に対する想いから、風船に託した私の想いというものを表現しようとして、このブログを立ち上げているのですし、バルーングラフィックを制作しているのです。

私は以前、このようなことをこのブログに書いていました。

顔の美人もさることながら、心の美人が非常に多い。「夢をかなえている」その輝きが、その人の心を美しくしているに違いないのではないか。(2001年12月2日→2010年11月23日アーカイブ)

このような

夢をかなえている輝きからもたらされる心からの笑顔ほど、人を幸せにするものはない

と私は思います。

最近、私は「笑顔がとてもすてき」と多くの人に言われるようになりました。そのような笑顔になることができるのも、一度曲がりなりにも夢をかなえ、その経験を次のステップに生かすことができているからなのかもしれません。

ふうせんでかけよう えがおのかけはし

ふうせんでかけよう えがおのかけはし

バルーンでもたらされる笑顔

バルーンでもたらされる笑顔

 

私が風船で今できること

こんばんは。

最近「バルーングラフィックを見るだけで元気が出る」という声を多く聞きます。

ところどころで最新の作品を織り込んでいるのですが、結果どんどん新しい作品が生まれます。

ハピネス アンド チアフル! …風船で届けたいもの

ハピネス アンド チアフル! …風船で届けたいもの

今日もこのようなグラフィックを制作しました。

このバルーングラフィックを制作しているときの私の気持ちは、とてもハッピーです。

…というより、これらのバルーングラフィック、一部の例外を除き、すべて自分が生命を吹き込んだ風船たちだけで構成されているのです。

そのような作品を自分が手掛けたものだけで作ることができるまでになっている…

改めてすごいことだと実感しました。

この夏、私は

バルーングラフィックをメインにした作品展を実施することに決めました。

コンセプトは、

風船で元気とパワーをいただこう

バルーングラフィックの作品展のほか、

くまさんのげんきだま2016表紙

くまさんのげんきだま2016(クリックするとPDFファイルがご覧いただけます)

をベースにした

トークライブ「風船で伝えたい想い」

さらに、

くす玉バルーンを自分で制作するワークショップ

バルーンクラッカー体験

 

天気が良ければ

バルーンリリース体験

という内容で、

風船で元気を届ける

ことをコンセプトに行うことにしています。

詳細は近く発表します。広島市郊外のとある場所で行うことにしています。

そういう私ですが、この夏は

くす玉のごとくはじける夏になりそう

です。他にも「世代間交流バルーン教室」などの企画を準備しています。

 

さて、トークライブでも話すことになりそうですが、私は

心の中にくす玉をもって日々生きてほしい

そのくす玉を用意する手助けをするのが親や周囲の支援者の役目

くす玉を用意するのも、作るのも、花開かせるのも本人の仕事

どういう方法で花開かせるかは本人で考えること

ただ漠然としていただけではくす玉は花開いてくれない

くす玉を花開かせるためには、汗と涙を流す必要がある

流した汗と涙に比例して、くす玉が花開いた時の感動は大きくなる

そして

そのくす玉が花開くとき、本人はとてつもない達成感を味わい、その結果大きな自信につながり、次へのステップになる

という考えがあります。そういう想いでバルーンに取り組む一方、バルーングラフィックの作品も制作しているのです。

かくいう私は、親も周囲の人も誰もくす玉を用意する手助けをしてくれませんでした。それどころか足を引っ張ってばかりでした。そしていつしか、自分でくす玉を用意するようになり、自分ではじけさせ、花開いたのです。

くす玉を花開かせるカギとなるのが

自己肯定感

私は、この自己肯定感がつい最近まで非常に低かったのです。今でも低いかもしれません。でも、

自己肯定感が低い状態では、このようなブログもかけなければ、自分の作品だけで更なる感動を生み出すバルーングラフィックを何十枚も作れるはずがありません。

もう私は焼きが完全に回っています。細長い風船で作品を創ろうにも、到底足元にも及びません。ましてや私は生まれつき不器用で、しかも自閉症…コミュニケーション能力も低く、職人の世界だったつい最近までのバルーン業界からの変化についていけず、一度は引退を余儀なくされました。

そのようなどん底を乗り越えたからこそできることが、今自分がやっていることであり、これからやろうとしていることです。

私はかつて、「くす玉バルーン」を生み出し、一つの市場を創り上げました。

本当に風船が好きで、くす玉が好きで、くす玉のはじける瞬間をだれよりも愛したからこそ、今につながっているのかもしれません。そして、次の世代に伝えることができるのかもしれません。

感謝の気持ちをくす玉に託して

感謝の気持ちをくす玉に託して

げんきだまの再生産サイクル

こんにちは。

最近、私が描くグラフィック、これらは基本的に私が制作した作品、すなわち私が生命を吹き込んだ風船たちの写真をコラージュして制作しているのですが、この作品たちから元気をいただいた、という声を多くの人からいただいています。

そのような声をいただくたびに

私の心の中でくす玉がいくつもはじける

という大変素晴らしくかつ心地よい状況が続いています。

ハートフル!

ハートフル!

私が創り出す風船の作品って、人を元気にするパワーがあるのかもしれません。
そこから生み出される力によって、人を感動し、元気づけることができるものを生み出せるということが、いかに幸せで、かつ素晴らしいことなのか…

私が膨らませ、生命を吹き込む風船たち、いつも述べているように、それらの風船たちには私の想い、そしてみんなの想いがいっぱい詰め込まれています。それらに接した人たちの心が躍り、そしていつまでも心に残る感動が残る…

そういう作品を長年制作してきましたし、今でも制作しています。

そうして積み重ねてきた作品たちで何か発信できないか…と考えだしたのが、バルーングラフィックなのです。

思えば5年前、2012年の今頃、私は長年蓄積された精神的疲労が極限に達し、うつ状態に陥りました。最初は「しばらく休もう」程度ぐらいしか考えていなかったのですが…本来あってはならない出来事が相次ぎ、鬱の症状は深刻さを増しました。

そして鬱症状が落ち着き、少しずつ再開の方向性を模索していたところ、今度はヘリウムガス払底という事態が追い打ちをかけました。一時は「もうヘリウムガスで風船を膨らませることはできないのではないか」というところまで事態が推移し、私が得意としていたバルーン演出の市場は大幅に縮小の方向に向かい(現在は回復基調)、バルーンの立ち位置もバルーン業界の姿も大きく変わってしまいました。

この状況に接した私は「引退やむなし」と判断、2013年春以降、新規のお客様の受付を徐々に停止し、2013年8月末をもって旧Y’s Dreamの営業をすべて終了しました。

私はその際、風船から完全に足を洗うつもりでいました。しかし、何らかの形でY’s Dreamの歴史は残しておきたい、そしてその歴史をバルーン業界の更なる発展に役立ててもらいたい…という想いから、48ページにも及ぶ作品集を制作したのです。

画像をクリックすると、新しいウインドウで作品集がPDFファイルでご覧いただけます。

この作品集、キンドルでもダウンロードできるよう、電子書籍化して有料でアマゾンで頒布していたのですが、どういうわけかコンスタントに今でも月1冊は売れているようです。

それはともかくとして、2014年春、私は全く違う業界で仕事をすることになりました。その際、「これからは風船を楽しもう」という考えから、趣味でバルーンをやっていくことにしました。そこで制作したのがこちら。

練習制作したバルーングラフィック

練習制作したバルーングラフィック

これはフォトショップの練習で制作したもの。これを原型として、

バルーンメイクエブリワンハッピー

バルーングラフィック

最初のバルーングラフィック作品ができました。2014年4月のことです。

自分の作品をコラージュ画として1枚の絵としてまとめることができるほど、自分がやってきたことがいかにすごいことだったのかを再認識させられることになりました。

旧Y’s Dream時代、私は「もっと上がいる」とひたすら上昇志向が強く、限りない高みを目指していました。その結果、1日に7組もスパークバルーンシャワーを手掛けたり、19時間も連続で風船を膨らませては運びを繰り返すなど、本来ありえない無理なスケジュールを繰り返し、過労状態になりました。それでも「まだまだ努力が足りない」と、自己否定を徹底的に繰り返し、スーパーマンレベルを目指していました。にもかかわらず、越えられない壁が自分にはあったのです…それが生まれつきのものであり、幼少期に原因があった、と分かったのは、風船を膨らませることを止めた後でした。

自己否定の鎧を捨てた私が、新たに生み出せること、新たに発信できることは何か…を考え、創り出したのが、バルーングラフィック。

そのバルーングラフィックが、今や

元気とパワーの源

として、多くの人たちに元気を分け与えることができるまでになったのです。

昨年(2016年)、今勤務しているとある福祉事業の会社の児童デイサービス部門から、このような声が上がりました。

「何か子どもたちに伝えることはできないか」

その声と私の想いをカタチにしたのが、この小冊子です。

くまさんのげんきだま2016表紙

くまさんのげんきだま2016表紙

こちらも画像をクリックすると新しいウインドウでPDFファイルがご覧いただけます。

この小冊子を制作するに当たっては、私がこれまで制作してきたバルーングラフィックと、私がこれまでしたためてきたこの「ふうせんでつたえたいこと」のエッセンスを、小学校低学年の子どもたちにもわかりやすいよう、噛み砕いて煎じつめました。

おかげさまでこの小冊子、放課後等児童デイサービスの現場でも活用されているところがあり、その児童デイサービスがある都市の近くのバルーンショップ様にも置かせていただいています。

そのようなバルーングラフィックが一堂に会しているページがあります。

バルーングラフィックタイトル

バルーングラフィック集(WEBページ)

そんな私が創り出したバルーングラフィックですが、どの作品も制作するときはテンションがすごく上がります。次から次へとくす玉がはじけるような感じで作品を創り出します。

いずれにせよ、自己肯定感がないと、このような元気を発信できるようなグラフィックは作れません。それだけ自己肯定感は重要なのです。

逆に言えば、そのような気持ちで作品を創り出すからこそ、華やかな風船演出がより一層元気の源になるほどのパワーを秘めることができるのかもしれません。そうして元気を分け与えることができた時、また一つ私の心の中でくす玉がはじけ、新たな元気の源になるのでしょう。

最後におまけ

このような動画も私が制作しています。はじける瞬間をたくさん集めています。

はじけろ!元気玉

こんにちは。

最近休みが変則で、土日出勤が多いです。

そのような最近の不規則な休みの日に、続けて曼荼羅画を見る機会がありました。

曼荼羅画には、キラキラしたパワーがあり、そのパワーはスパークバルーンに通じるものがあります。いずれも万華鏡の中身を創り出すようなもので、神秘の力を秘め、多くの人たちに感動を与えられます。

万華鏡を膨らませるイメージ

万華鏡を膨らませるイメージ

万華鏡を膨らませるイメージその2

万華鏡を膨らませるイメージその2

このように、曼荼羅画に触発されて、自分が生命を吹き込んだ風船たちでグラフィックを作りました。

そして、この万華鏡グラフィックに必ず入っているのが、

パーンとはじける瞬間を表現したこれ

花火のようにはじけるくす玉

花火のようにはじけるくす玉

先日、私が制作した作品集をとある方がご覧になられました。そして一言

見るだけで元気が出た

またしても私の中でくす玉がはじけました!

ぱんぱかぱーん!!!!

昨年、私は

くまさんのげんきだま

なる小冊子を制作しました。(画像をクリックすると小冊子の中身がpdfでご覧いただけます)

くまさんのげんきだま2016表紙

くまさんのげんきだま2016表紙

この世界観を表現しようとしたのが、昨年秋に制作したこれらの作品たち。

想いがはじける

想いがはじける

みんなの想い、そして私の想いを風船に託した作品たちです。

私が現在勤務している会社は、本業は放課後等児童デイサービスや訪問介護・訪問看護などの総合福祉事業です。その会社が、福祉という枠を超えて、感動を生みだしています。

昨年のこのイベントでは、見る人たちが元気をもらって帰ったそうです。今年も会場を訪れた人たちが元気を持って帰れるよう、すでに準備が始まっています。

そして私は、一つでも多くの風船に生命を吹き込み、その風船たちに想いを託して、元気を分け与えていきたいです!

曼荼羅画から元気を頂戴して、より元気を発信したくなりました!

そして、はじけるスパークバルーンは一人一人の心にいつまでも残る、元気玉になりつつあります…