本当に風船が好き、その先にあるもの…

こんばんは。

今日はとあるイベントに参加しました。

といってもノーギャラ、それどころか参加費用を払っています。

参加費用には有名仕出し店のデラックス弁当(調べると1620円相当)とビール・チューハイ飲み放題が含まれていますが…

勤務している会社の児童デイサービス関係者ということで優待扱いで参加させていただきました。

当然子供さんいっぱい。

雨の中盛り上がりました…

が、この画像をよく見ると、見慣れたものが…

そう、風船を持ちこんだのです!

ちなみにイベント中にバルーンクラッカーを仕込みました。

よりによって仕込中に1個間違って割ってしまう…(残り1個で無事バルーンクラッカーの演出ができましたが…)

でも楽しかったです。

それだけ私は風船が好きなのです…が

風船でもたらされるものは、笑顔、幸せ、そして感動…

私が10年以上にわたって風船に「生命を吹き込む」ことができるのも、それだからなのでしょう。

仕事でなくても、自然とやってしまう…

本当に楽しいです。

私は技術を競って、ストイックになってしまっているような印象を、一時期バルーン業界に抱いていました。私もかつてはJBAN Conventionなどの大きな大会に出場し、技術を競っていたことがありました。しかしその技術だけが独り歩きし、コンテストの結果に一喜一憂する…それが数年前のJBAN Conventionなどで感じられた印象で、

本来の目的を見失っていないか

という危機感をバルーン業界に抱くに至ったのです。

そして私は一時期

風船を見るのも嫌になった

ことがありました。その結果、一度3年前に引退しました。

でも風船が嫌いになったのはほんの一時期だけでした。

やはり私は風船が本当に好きでした。

かつてのように世界にも通用するような大きな大会で技術を競い合うつもりはさらさらありません。むしろ障がいのある子供たちに風船を通して自信と生きる力を身につけることこそが、今私がすべきことなのです。それができるのも

本当に私が風船が好きだから

なのかもしれません。

現在、来月出版を目標に、これまでの作品をベースにしたグラフィックを中心にした小冊子を制作しています。この小冊子を、私が今勤務している児童デイサービスの保護者には無料で頒布することを検討しています。一般にも数量限定で無料頒布する予定です。テーマは

好きなことを見つけることによって生きる力を身につける

ということです。

何度も言うように、私は

風船と出会わなければ、今頃この世にいないか、塀の向こう側だったかもしれない

のです。だからこそ本当に風船が好きなのかもしれません。

 

発達障害を乗り越えて…

こんばんは。

よりによって私は歓喜の瞬間を見逃してしまいました…

思うところがあって愛媛県に行っていて、松山発広島行きのフェリーに乗っていたのですが、船内のテレビはどういうわけかNHK総合テレビのカープ戦中継を放送していなかったのです…聞くと「地上デジタル放送のアンテナを撤去した」とか。私を含めた多数の乗客から怨嗟の声が飛び交いました。

なぜそこまでしてこんな日に四国は伊予に向かっていたのか…2か月後、私が勤務する会社では「夢フェスタ」なるイベントを開催するのですが、今のバルーン業界、とりわけバルーンショップの在り方が、井の中の蛙になっていてはいけないと実感していたからなのです。

これまでにも日本各地のバルーンショップに私は足を運び、作品からそれを制作する人の人柄に至るまで、たくさん見てきましたし、学ぶべきところも多いと実感しています。

「心に響く表現者になりたい…」ということを述べていた有名バルーンアーティストの方もいます。この方はすでに世界に通用する、日本トップクラスのバルーンアーティストに成長しています。

今日もですが、「Y’s Dream」のホームページにあった作品に、目指すべき方向性を見出した方に出会いました。

ところで私は、ちょっとしたことでもネガティブなアクションを起こされると、

「自分は何か相手に悪いことをしてしまったのか」

と深く考えてしまいます。このこと自体、自閉症由来の発達障害の特性なのです。

しかし、それが逆に私の純粋な心の在り方なのです。

それゆえ、風船に対する思いは日本でも屈指の強さだと思いますし、それゆえに生み出した感動の瞬間はいつまでも多くの人の心に残っているのです。

プロのバルーンデコレーターから感動されたことも幾度かありました。「このような感動を生み出したい」といわれたこともありました。その時、私の心の中にあるくす玉がはじけます。

「くす玉バルーン」というのがあります。「スパークバルーン」の別名なのですが、元は私が「くす玉バルーン」と名付け、それが縁起が悪いという理由で「スパークバルーン」に変わり、定着したものです。(私から言わせると、「クラッシュバルーン」の方がもっとよくないネーミングに思えるが…クラッシュ=破壊・墜落…なので)

そもそも「くす玉」は「久寿玉」であり、めでたいものの象徴なのです。

そういう想いを共有している人たちが、私と結びつく傾向にあるようです。

だからこそ、私は発達障害を乗り越えることができたのかもしれません。

明日(というよりもう「今日」になるが)、そういう想いを一冊の絵本に仕上げていきます。

そして、この絵本が、同じような障害に苦しむ子供たちの未来を切り開くことができることを目指しています。

そのために、私は今日(というより昨日)、動いたのです。

スマホの万歩計を見ると36000歩!10000歩で8キロと計算すると、1日で30キロ歩いた計算に!

もはや「強歩」のレベルです…

あと、分かった事実。

私は「高所恐怖症」だったこと…

しまなみ海道のある橋を渡ったのですが、

正直怖かった…

でも、渡り切った時は

快感だった

怖さと快感

バルーン演出に通じるものがある…

失敗を恐れては何もできない

その先にとてつもない感動がある…

はじけるくす玉

はじけるくす玉…私の想いそのもの

 

本当に私が風船が好きになったきっかけとは…

なぜ、私は「くす玉がはじける瞬間」の虜になってしまったのか…

 

私は小さいとき、風船が怖かったらしい。本当に幼少期のことである。

そのころ私は、「くす玉がはじける瞬間」から目をそらしていたような記憶がある。

ところがちょっとしかきっかけでその虜になってしまった。

 

その心境について、私はよく覚えていないが、世に中には私とほとんど同じような方もいて、その方が結構前にブログに書き留めていた。このブログの記事は今でも残っているようなので、参考までにリンクを貼っておく。

何故私が “風船属性” を身につけるに至ったか

私が好きな風船シチュのひとつが、「頭上から風船が舞い降りる」というものです。

 

これらの引用元の記事はそれこそ2006年から2009年ごろの記事です。

このころ私はバリバリの現役のバルーンアーティストでした。

Y’s Dreamは人一人が十分に生活していけるだけの利益を上げていました。

 

というわけで、話は1995年、21年前にさかのぼります。

このころ私はとんでもない状態でした。今なら「パワハラ」に該当する行為を上司から受け、それこそ「ギャンブル依存症」に近い状態でした。当時交際していた彼女ともその上司によって別れさせられ、挙句の果てにはとある新興宗教に走る始末でした。

そのころ目にした「エミリーズバルーンアートスクール」のチラシ。

私は最も近い日程に初級と中級のみ申し込みました。後々役に立つかもしれない、と思ったからです。これが20年前、1996年のことでした。

さらに翌年1997年1月、私は1回目のJBAN Conventionに参加しました。あまりのすごさに感動しました。この感動、風船に携わることの素晴らしさを社会に還元したい、という想いからY’s Dreamはスタートしたのです。

以来2012年に鬱を発症し、ヘリウムガス払底が追い打ちをかけて活動停止に至るまで、Y’s Dreamは続きました。

その中で私は幾多の感動の瞬間を創りだし、その多くが一人ひとりの心の中に刻まれ、中には10年以上たった今でも「忘れられない瞬間」として生き続けている人がいるという、普通ではなしえないようなことをやり遂げていたのです。

その中には自分自身が天にも舞い上がるほどの快感を覚えるほどの感動の瞬間を創り上げたこともありました。もちろんその瞬間に接した人も多くが感動し、中にはそれこそ今でも鮮明に覚えている人がいるそうです。

 

2013年、私は引退を決断しました。

震災をきっかけに人々の心の在り方が変化し、ヘリウムガスの国内流通が数か月にわたり停止し、結果バルーンの立ち位置が大きく変化して、その流れに私はついていけないと判断したからです。

 

それから2015年までの記録はこのブログにある通りです。

 

2015年の夏ぐらいから、私しかなしえないような感動の空間を創り上げる局面が続きました。

山の中の廃校の講堂でのミュージカルでの空間演出、バルーンがテーマの結婚式、そして障がい者と社会をつなぐイベントでの空間演出…

 

「障がい者と社会をつなぐイベントでの空間演出」の結果、私はそのイベントを主催した会社に入らさせていただくことになった。かねてから障がい者雇用と就労移行支援の問題に取り組みたいと考えていた私は、この問題に今真剣に取り組んでいる。

その中でバルーンを活用しているのだが、今年の秋には再びあのイベントが開催されるという。当然バルーンは組み込まれている。昨年できなかった「自動スパークバルーンシャワー」も今年はぜひやるつもりだ。今までになかった感動を生み出したいと私は考えているし、毎年新たな演出を取り入れ、感動のクライマックスとし、名物に育て上げたいという思いがある。その中で障がいのある人たちにも制作に加わってもらい、感動の瞬間を一緒に生み出すことによって、自らの自信に結び付けたいという思いがある。

同時に今回私は、このイベントに向けて、自らがバルーンで実践してきたことを1冊の本(10ページ程度)にしたいと考えている。このブログの記事も一部組み込むつもりです。

私が生命を吹き込み風船が一人でも多くの人の元気と勇気の種になってほしい

…という想いで、今年は取り組みます。

はじけるくす玉

はじけるくす玉

 

これはこの7月に、これまであった動画集を再アレンジして制作したものです(2017年6月に入れ替え)。

自己否定を克服する、ということ

おはようございます。

 

私はかつて、自己否定の塊だった。

それはバルーンアーティストとして実績を積んでいた時期でさえもそうだった。

絶えず上を目指していた。どこに頂点があるのかわからない状態だった。実際トップランナーだったとしても、その中での先頭を目指していた。

 

そうして長年の無理が蓄積し、鬱を発症した。

私はバルーンアーティストだった自分を否定しようとした。

そして全く違う、40年以上むだに年を重ねた自分になろうとした。とある転職コンサルタントの方もそれを促した。

 

徹底した自己否定をもってしても、バルーンアーティストだった自分を否定することができなかった。両親はこれを否定しようとしたし、今でもしようとしている。その結果、母親はどうしようもない精神障害と身体症状に苦しんでいる。私もこれを試みた。新興宗教や人格改造セミナーの力を借りることさえ考えた。実際バルーンアーティストになる前、すなわち20年前ギャンブルにおぼれていたどん底の時期、私はとある新興宗教に数か月間はまっていた。違和感を感じて新興宗教はすぐにやめた。

 

結局たどり着いたところは「形を変えた復帰」だった。

自己否定は全く何ももたらさなかったのだ。

 

こうなると発達障害が疑われると診断された際の幼少期の親の対応が重要になってくる。

ここで自己否定をするよう、子供をしつけると、「ゆがんだ躾=押し付け」となってしまい、後々苦しむことになる。たちの悪いことに、昭和の時代はこれが「正解」とされていたのだから、今日の虐待や「やさしい虐待」問題、すなわち「毒親」の問題になる。

 

さて、自己否定の鎧を捨てた私は、バルーンアーティストだった自分の評価が実際はかなり高いものだったことに気が付いた。

バルーン業界というところは、一時期ある意味生き馬の目を射抜くようなところだった面がある。プロスポーツ界、芸能界、政財界に近いところだった。そのようなところにいたから、客観的に自分がやってきたことがすごいことだったにもかかわらず、その中での相対評価をするようになり、結果厳しい自己評価→自己否定につながった。

他方、バルーン業界はここ数年、大きく変化した。昔と異なり、それぞれのやり方でやっていく分野に変わった、というか私が現役だったころから変わり始めていた。昔の見えない頂上を目指すような考えの時代ではなくなっていたにもかかわらず、昔のままにとらわれていたのである。

今、バルーンアーティストであったかつての自分に対する再評価がいろいろなところで起きていることを実感している。そこにあるのは「自己肯定感」である。

私が生命を吹き込んだ風船によって多くの人に幸せと感動、そしていつまでも忘れない思い出を刻んでいる…このことがいかに素晴らしいことなのか、今あらためて実感している。その素晴らしさを次世代、とりわけ同じ障害に苦しむ子供たちや若者たち、それに若手バルーンデコレーターに伝えるのが今の私の仕事だと思うし、まさに今その仕事に取り組んでいるのである。

風船でハッピーに!2016夏

風船でハッピーに!2016夏

風船でもたらされるもの、それは幸せと感動と思い出であり、それを伝えることによってその人にもたらされるものは自己肯定感であり、その自己肯定感が一歩前に進む自信につながるのである。

職業、バルーンアーティスト。って胸を張って言える社会にするために…

おはようございます。

 

先日、ある高校生の方が問題提起をしてくださいました。

私も一連の議論に参加したのですが、最大の問題点は

バルーンアーティストという職業はすでに確立しているのに、その社会的認知度がきわめて低いところにある

と考えています。

 

ところで、今年の3月、すなわち熊本・大分両県が震災に見舞われる前に、私は由布院・阿蘇・久住を訪れていたのだが、その際に「ななつ星」に出会った。70万もするJR九州のあのクルーズトレインである。

クルーズトレインはJR東日本もJR西日本も準備中だそうだが、クルーズ船という概念が日本に入って30年近くたつそうである。鉄道ジャーナル2016年7月号によると、クルーズ船で旅行する市場人口は30年ほどの間にあまり増えていない、つまり市場が思ったより広がっていないという。結局クルーズ船やクルーズトレインは「ニッチ市場」の域を出ない、と論じられていた。

バルーンの市場も同じだと思う。インターネット通販でバルーンギフトは手軽に買うことができるようになり、バルーンショップは昭和の時代は東京、それも渋谷と麻布にしかなかったのが、今では日本の主な都市にはどこにもバルーンショップが存在するようになった。複数のバルーンショップが半径10キロ圏内にあるケースもある。しかし…

どこで風船を買えるのかわからない

という声がいまだに存在するのも事実である。そしてバルーンを買う顧客が予想以上に増えていない、と思う。

厳しいことを言うようだが、

バルーンアートはまだまだニッチ市場の域を出ていない

と私は考えている。

 

現実の声として、将来バルーンアーティストをめざしているとある高校生の意見をフェイスブックから引用する。

高校卒業したら就職しないといけないから職場をよく見ておけって先生が言って、私が「進学者は?」と聞いたら「大学卒業後どんな就職に就きたいか考えておけばいい」と。
「私バルーンアートやるんですけどー」って言ったら「そっか!君はバルーンアートやっていたよね!じゃあ将来はプロの道に進んで、もしかすると有名になったりするのかな!?」→「いやいや有名にはww」

そしたら友達が
「まずバルーンを職業にしている人がいるかどうかだよね。」って。

まだまだバルーンって本当に知られていない。
私は同級生に「それが職業になるかどうか」
「無料で配っているんだから全部無料でやっている」「職業にしている人がいない」って言われてきました。

大人になってもっと素晴らしい作品を作って皆さんに見てもらえるようになろう。

 

 

エミリーズバルーンアートビジネススクールの第1回が開催されたのが1995年。

それまでにもわずかながら様々なバルーンアート作品が存在した。

この高校生は、私が制作した作品の作品集をじっくりと隅から隅までご覧いただいた。

その中には1997年や1998年の作品も含まれていた。

「私が生まれる前からこのような作品を作り続けてきたのか…凄い」と一言。

私はとてもうれしかった。

 

にもかかわらず、バルーンが「ニッチ産業」の域を出ていないという現実。

バルーン人口は確かに増えたが、市場はそこまで大きくなっていないという現実。

 

私は再就職活動に取り組んだ際、とあるエージェントの人にこう言われた。

「そのキャリア、ホストを20年近く続けたのと大した違いはない」

とてもショックだった…というか、私にとってこの言葉は重石になってしまい、一時はキャリア白紙化も考えるほどだった。結局今の会社が旧Y’s Dreamを引き取る形で私はその会社に就職し、こうしてバルーンアーティストであることを再び始めた。しかも、障がいのある人たちにバルーンを通して自信を身に着け、社会参加のきっかけをつかむという新たな使命を担ってである。

 

今、その思いを現実の形にするために、会社の中で準備を進めている。

バルーンの市場を拡大することもその中で重要になっている。潜在需要の掘り起こし…

私がこれまでの推移の中で実感してきたのは

バルーン人口の増加に市場の拡大が追い付いていない

という問題。バルーンが「ニッチ市場」のままであっては、

供給過剰

といわざるを得ない。だから私は撤退という選択を一度した。それでも私は結局バルーン業界に戻ってきた。本当に風船が好きだからである。

 

この度、この高校生が問題提起をしてくださったこと、大変意義深いと私は思う。

「職業、バルーンアーティスト」と胸を張って主張できる人がこれまでより多くなっていくことがニッチ市場からの脱却につながるのではないか、と私は思っている。

ツイスターズ2016…とてもうれしかったこと

こんにちは。

珍しい金曜休みです。

業務関連とツイスターズの影響が重なり、結果今日休みです。

やっと名刺の整理ができました。

 

ツイスターズからもう1週間近くがたつのですね。

次はJBAN Conventionです。今年は20周年のメモリアルイヤー。何としても行きたいです。というか申し込みをすでにしました。来週給料が入るので、そこで入金します。ホテルも予約済みです。もちろん予算も確保しています。というかギリギリなんですが…

 

そのツイスターズでとてもうれしかった出来事。

とある女子高生がツイスターズに参加していました。その女子高生に私の作品集(2013年までの、あの旧Y’s Dreamの完全版)を見せると、時間をかけて食い入るように見ていました。そしてこう言ってくださったのです。

 

私が生まれる前から作品を作り続けていて、一度やめたのにこうして今も続けているということ、とても素晴らしい。私もこういう風な人を感動させる作品を創ることのできるようなバルーンアーティストになりたい

 

…また一つ、心の中でくす玉がはじけました…

 

他にも数名、私の作品集を食い入るように見る人がいました。

 

…私がやってきたことは間違ってなかったのです…道なき道を切り開いたこと…

 

そして、一度辞めてもなお再び風船に携わることができるという今の幸せ・・・

 

私は自閉症スペクトラムという生まれながらの障害に苦しんでいます。

※一般的には「アスペルガー症候群」に該当し、実際2012年に出た診断は「アスペルガー」だったが、2013年のDSM-5(米精神医学会の診断の手引-第5版)基準でこの呼称は廃止されているので、私はこの表記を使用していません。

表面上は分からないのですが、実際はこれまで述べてきたとおりです。

誤った理解をするなど、対処法を間違えると大変なことになる場合が多いです。とりわけ親が対処法を間違えると、自殺などの悲劇や、最悪の場合無差別殺人といった大惨劇につながりかねません。

ところがこういう障がいを抱えている人は、えてして何らかの才能を発揮できることが大いにあるのです。そして集中力がすごいです。だからこそあれだけの作品を創り上げることができたのですが…

 

あの作品集を作って3年が経過しようとしています。

本当なら私は3年前にバルーン業界から姿を消してしかるべきでしたし、私もそのつもりで転職活動に取り組んでいました。しかし…

 

私は形を変えてバルーンに再び携わることになり、私が16年にわたって築き上げたものは再び生きようとしている…

 

いかに私が築き上げたものが大きかったのか、ということを痛感しましたし、それが次の世代につながるということの素晴らしさも体感しました。

 

今、私は同じような障がい、あるいは自閉症が背後にあるとみられるニート、ひきこもりの人たちにバルーンを通して社会参加のきっかけをつかみ、就労につなげるという取り組みを会社という枠に所属する形で進めています。すでに受け皿となるバルーンショップは形になりつつあり、風船を買いに私が今働いている職場に来る人も現れ始めています。本年度の経営計画にも入っています。

 

そのような中で、過去の私の作品集が次世代のバルーンアーティスト育成に役に立つ…

これほどうれしいことはありません!

AWESOME!で配布中のパンフ1

AWESOME!で配布中のパンフ1

AWESOME!で配布中のパンフ2

AWESOME!で配布中のパンフ2

風船に託したわが社の想い

おはようございます。

昨日はフラワーフェスティバルのパレード・・・でしたが、

よりによってなんでこの日を選んで雨が降るの…もしかしてこれ、くまモンの涙雨!?

というような天気でした。現実に博多どんたくはパレードが中止になったそうです。

 

さて、見出し。

パレードの時間はほんのわずかです。

広島市にある平和大通りを中心部から平和公園まで約1.2キロ行進します。

そのための準備に多大な時間をかけるのです。膨大な書類作成、応募から集計、何度も繰り返されるミーティング…

 

私は昨日までの1週間、すべての勤務がバルーンに費やされました。今日から8日まで連休です。

 

全ては感動の瞬間のために…

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雨が次第に激しくなる一方だったので、平和公園でスパークさせるものを風を計算しながら中心部でするなど、広電や道路の交通に支障となったり原爆ドームなどの世界遺産を傷つけないよう、可能な手はすべて打ちました。地元のテレビ生中継でもスパークする瞬間が放映され、雨に打たれて飛ばなかったバルーンを後方部隊が回収する光景を地元テレビ局が評価するなど、ベストは尽くしました。

 

が、やっぱり雨が…

 

私がこれから会社の中ですることは、

感動を生み出すことによって就労への道を切り開く

ことです。

 

華は開く瞬間によってものすごいパワーをもたらします。

まさに私が創り上げようとしているものそのものです。

これを会社が推進しているのですから、当然私がすべきことが見えてきますし、そういう会社で仕事をしていること自体素晴らしいことだと思うのです。

そのようなものすごいパワーを生み出す会社の中心的存在の一人が私…

 

実際のところ問題点も多々見つかり、とても成功とはいえないが、この結果は実績につながります。そしてそれが「今度こそは成功させる」という原動力になり、より大きな感動を生み出すのです。

鳥肌を立たせるほど感動させることとは

こんばんは。
久しぶりの更新です。

今、ヘリコプターがうるさいです。
何しろ世界の目が広島に注がれる1日です。

そんな中、私はふとしたきっかけでサミット会場の近くへ…

とあるイベントを見に行きました。

音楽と大道芸のイベントだったのですが、一番すごかったのが
書と和太鼓の融合

鳥肌が立つほど感動しました。

実は、この書のパフォーマンスをされた方に、数時間前私はこういわれたのです。

鳥肌が立つほど感動した

その方は書のワークショップをこのイベントでされていたのですが、そこで目にしたのが
ツイスターズ2016広島のチラシ
でした。

私もこのチラシはすでに入手していて、いま勤務している会社が運営するバルーンショップにも置かせていただいてますが、なぜこのチラシが書のワークショップのブースにあるのかすぐにわかりました。
ツイスターズ2016の賞状を担当されるとか。
ちなみにこのイベントのプロデューサーとツイスターズ2016のディレクターは友人同士で、しかも二人とも旧Y’s Dreamと非常に関係が深かった方です。もちろん8年前のツイスターズも中心になって動いていました。

私はこの方のパフォーマンスを見ずに帰るのは失礼と思い、パフォーマンスを拝見させていただきましたが、本当に素晴らしいものでした。

 そのような方に「鳥肌が立つほど感動した」「今日来た甲斐があった」などと言われたのですが、私など今は焼きが回っています。私の作品など序の口レベルです。あまりにも素晴らしい最高レベルのバルーンアートに接して、言葉を失うほど感動することになるでしょう。

河内裕美の書のページ

こんにちは。

今日は花見をしてきました…広島も宮島も廿日市ももう散っています…向かった先は北広島町。

こちらは満開です。

私自身、桜は桜吹雪は言うまでもありませんが、上の写真のようつぼみが開きかけているくらいが一番好きです。今にもはじけそうな、何とも言えない勢いを感じます。そしてその花にはものすごいパワーを感じます。

久しぶりにこの状態の桜をじっくり堪能しました。

さて、下の写真。

さんちゃんホール

さんちゃんホール

昨年(2015年)7月のあの感動の「きたひろしまミュージカル」のフィナーレを彩ったあの場所です。

季節は巡り、桜が咲いています。

あれから9か月の月日が過ぎ去りました。

暑い夏を経て山が色づき、冬を経て春が巡りました。

あの時緑の稲穂は色づいて収穫を迎え、雪に埋もれた後再び耕されていました。あと1か月もすれば新緑が芽生え、今年の稲が植えられます。

そして今日はいくつか懐かしい場所も訪れました。

いずれも2016年

 

2003年から2004年

これだけではありません。デコレーションの写真も数えきれないほどあります。

本当にここには鍛えられました。

まさに「バルーン道場」でした。

広い会場を何度走り回ったことか…

そしていろいろなことにチャレンジさせてくださいました。

ここのおかげで私は自分のスタイルを築き上げることができたのです…

今ではここで結婚式を挙げることも年に1組あるかないかだそうです。

当時、ここの周辺ではハウスウェディング不在ということもあって、非常に人気があったようです。

中でも一番忘れられないのが2003年5月のゴールデンウィークにあった結婚式。

ここのオープン5周年イベントの一環でした。

池の周りに一般のお客様も参加いただき、列席者とともにバルーンリリース。ゲストと列席者で合計500個。新郎新婦の誓いのキスの瞬間に島にあったバルーン5個が一斉にはじけ、合計約700個。総計1200個以上もの風船が一斉に舞い上がるという光景を創りあげました。あの感動は今でも忘れることができません…。

この時司会をしていた方は

「鳥肌が立つほど感動した」

とのこと。

今でもこの場にいた人たちの心に残る光景なのかもしれません…

さらにここも訪れました。

2016年

2007年

ここも何度手がけたことか…

しかし、先述の会場に比べると大がかりではありませんでした。

話を戻すと、

私はほんの一瞬の感動を生み出すために、ものすごい力を費やしてきました。

私が創りあげた瞬間が多くの人の心に響いた時、私の心の中でも大きなくす玉がはじけ、たとえようのない快感を感じました。

そのような瞬間を作るだけのために、10年以上もの日々を過ごしてきたのです。

長年の無理の結果、私は心を滅ぼしました。

しかしこのことに対して全く後悔はしていません。

最近、私がしてきたことがいかにすごかったことなのか、再認識させられる出来事が続いています。

そして、それが今につながっているのです。

そういう感動を生み出すことによって、その人の自信につながるようなことをこれから私はしていきたいのです。

たとえそれが小さなバルーンアレンジであったとしても、それが一つの風船でできた動物であったとしても…

以前述べたように「心の中のくす玉をはじけさせる手伝いをしていきたい」と私は思っていますし、まさに今その仕事についています。それができるのも、「数多くの心のくす玉をはじけさせた経験のある」私だからこそなのかもしれません。

BALLOONS MAKE EVERYONE HAPPY!

BALLOONS MAKE EVERYONE HAPPY!

はじまりから20年…歳月の重み

  こんにちは。
私がエミリーズバルーンアートスクールに通ったのが20年前。1996年4月のことでした。
思えば、これが始まりだったのです…Y’s Dreamの。

当時私はとあるバス会社に勤務するサラリーマンでした。
ギャンブルにおぼれ、当時付き合っていた彼女とは別れ、どうしようもない状態でした。
風船が好きだったのは言うまでもなかったのですが、いったい何ができるのか、後々役に立つかもしれない、と考え、私は参加しました。

やがて私は、「風船を膨らませた方が地域社会に役に立つ」と考え、いろいろなことに挑みました。一方当時勤務していたバス会社は将来の展望を描いていませんでした。ただ縮小均衡だけを望んていたのです。

4年後、私はプロに転向しました。

2年間、模索しながら続けていましたが、2002年、完全に自立。
そこからひたすら走り続けました。

あっという間の10年間でした…

2011年3月11日、東日本大震災発生。
それをきっかけに世の中の流れが少しずつ変わりました。
2012年、長年の無理からうつ発症。加えてヘリウムガス払底が起き、大きく流れが変化しました。
私は引退を決断、2013年8月に旧Y’s Dreamは全面活動停止しました。
その後「風船の世界はどう変わるのか…」を外から見つめ続けました。

2015年、規模を大幅に縮小して細々と再開しました。
できることは限られている、と判断したからです。
そして福祉、とりわけ障害者の就労の分野でバルーンを生かすことはできるのではないか、という結論に至り、今年に入ってからAWESOME!という新名称で活動を本格的に再開しています。

私がこれからやるべきこと、やりたいことは多くの人を感動させる演出を生み出すことではありません。
小さな感動をもたらすことによって自信を身につけさせるためにバルーンを活用し、そこから新たな道を創り出すことなのです。

この三連休、私は久しぶりに弾丸長距離ドライブを行いました。
20年前の同じころもやはり弾丸長距離ドライブを行いました。
あのころは必死に何かを探していました。
今回はあの時とは全く違う目的で弾丸長距離ドライブを行いました。

当時私は20代でした。
今は40代中盤、もう若くありません。

 
バルーンを始めて間もないころ、1997年だったと思うが、由布岳を眺めて「ここでバルーンリリースができたら…」と思った。それは2000年4月に現実になった。

その時の様子。

 
2000年4月、由布院に住み込んで作品展をしていた。これがきっかけで地域と共存するバルーンアトリエを構想するようになり、それは2002年から2011年まで大朝、今の北広島町で実現した。

バルーンドロップ

昨年7月の作品。広島に戻っても、北広島町とのつながりは続いた。

 

この温泉、熊本県の阿蘇外輪山の懐にある。1990年以来の再訪。阿蘇・九重一帯は何度も訪れているが、ここだけは25年ぶり。25年前といえば大学1年生。まだ10代だった…
 
25年前、いや戦前からこのたたずまいだったのだろう。
平和だからこそ風船を膨らませられる、平和だからこそこのようなことができた…

 1997年1月

  1998年11月

 1999年12月

  2000年4月

 2000年7月

  2003年1月

2003年4月
 
 

2004年10月



 
    2006年1月

 2007年4月

  2008年10月

  2009年4月

  2010年12月

  2011年1月

  2012年10月

  2012年11月
 

  2013年3月

  2013年7月

  2013年8月

  2014年3月

3回目公演

外からステージを望む

バルーンドロップ

1回目公演

1回目公演

  2015年7月

  2015年11月

 これでほんの一部。
2013年8月に引退・営業終了する際に作品集をまとめている。このブログからもリンクを張っているので、ご覧いただければと思う。

そして…
  現在進行形。

バルーンショップはプレオープンし、現在営業しながら問題点を模索している段階。結構な問題点が出ている。
随分いろいろな風船屋を私は見てきたが、本格的にやっていくにあたって、まだまだ手探りである。
いずれにせよいえることは、
勉強しなければいけないことは山ほどある
ということ。

経験に甘えてはダメである。

そんなことを身をもって実感した三連休であった。

達成感を味わさせるのが私の仕事

今、本業の仕事で、就労継続支援B型と就労移行支援の在り方について悩んでいます。
まず就労継続支援の定義ですが、A型とB型があります。A型は雇用契約を結ぶのに対し、B型は雇用契約を結ばないという違いがあります。この結果、生活をするのに十分な給与がB型では得られないという問題がある一方、A型では営利追求と利用者の管理の両立が難しく、職員に過重な負担を強いるケースや利用者を危険にさらすようなケースが散見されています。
他方、就労移行支援では、一部で「就職予備校化」の様相を呈しています。訓練プログラムに問題があるようなところも多々あると聞きます。
さらに私が気にしているのが、利用期間の問題です。就労移行支援は一生涯のうち2年しか使えません。その2年のうちに一般就労ができなかったら、容赦なく就労継続支援に移ることを求められます。このため数字稼ぎに走るところも多く、結果「就職予備校化」につながっています。他方、就労継続支援はいつまでも利用できます。結果、障碍者年金と相まって、就労への意識が低下してしまうことに結びついているのかもしれません。
現状、精神・発達障碍者への国民年金の審査は厳しくなる傾向にあります。最初2級と判定された人が、更新の際に3級と判定され、障碍者年金の支給が停止されるケースも見られるようになりました。社会保障費の伸びを抑えるために厚生労働省の役人はあの手この手を考えています。
加えて保守化の流れによって「家族の役割強化」を志向しているといわれ、戦前における家、すなわち「イエ」の在り方に戻ろうという流れになっています。ところがこれは私自身も直面したように、画一的な家族関係を求めようとした結果もたらされる親子間の問題を引き起こしかねず、そのような問題に苦しめられている人たちを孤立させ、悪循環になってしまいます。

そのような問題に直面した私ができることといえば、
風船で人を幸せにする経験を多くの同じような障害に苦しむ人たちに味わさせ、その経験を自信に結び付けさせる
ということだと信じています。
ここ数か月述べ続けている
たくさんのくす玉をはじけさせた私として、同じ障害に苦しむ人たちの心の中にくす玉の種を植え、その種を大輪の花として開花させる手助けをする
ということは、こういうことなのです。

私がもたらしてきたものは、これです。ほんの一例ですが。

風船でもたらされるもの、それは笑顔風船でもたらされるもの、それは笑顔

そのたとえようもない感動を一言で表したのが
AWESOME!
という言葉です!それが今のブランドです!

そのような感動を創造することによって、一般就労に結び付けようというのが、これから取り組もうとするプロジェクトなんですよ!