バルーンから離れて3か月あまり…その2

こんにちは。
やはり撤退はやむを得なかった、と最近は思い始めています。
特定日に集中する傾向は相変わらずで、加えてヘリウムガスの供給は多少は緩和されたにしても相変わらずの厳しさ…聞いた話では10月のハロウィン前後に一気に供給がタイトになったらしいです…おそらくブライダル需要が伸びたからでしょう。
さて、私は今、
さみしさと気楽さ
が同居したような気持なのです。

バルーン演出に取り組むときは、いつも緊張しました。
競艇の優勝戦のスタートに匹敵する、ものすごいプレッシャーを感じました。
バルーン演出が成功したときの気持ち…ですが、
ほっとした、という気持ちになることの方が多かったですが
それ以上に
体中を電流が走り抜けるような
たとえようのない快感

を味わうことが何度もありました。

この動画集はそのような瞬間をとらえたものです。地響きのような歓声がすべてを物語ります。
この気持ちをもう味わうことがない…と思うのが一番さみしいです。
その一方で失敗したときのあのつらさを味わうことももうないですが…
これは競艇のスタートで失敗してフライングをしてしまった時と同じです。
ある選手は、フライングをすると首を切られたような心境になるといってました。
毎年のようにビッグ競走(SGおよびプレミアムG1)の優勝戦でフライングがありますが、その時の心境は本当につらいものがあるのは容易に察することができます。
それと同じです。
私は2000年の当初「10年バルーンアーティストを続けられたらいい」と思っていました。
当時私は30代になる少し前、29歳でした。
結果、10年以上続けることができました。
続ける中で、「成功し続けることの厳しさ」というものを学びました。
気がつくと、惰性で風船を膨らませるようになっていました。
一度得た環境の心地よさはある意味ぬるま湯と同じで、その環境が何かのきっかけで変化すると、途端に行き場を失ってしまいます。まさしくその状況に私が陥ってしまいました。
このブログは近日中に更新を停止することにしています。
ホームページもアーカイブ化する予定です。
しかし当面はそのまま残しておくことにします。
私がたどった道から後輩の若い人たちが
一つでも多くのことを学んでいただくことが
バルーン業界のみならず、風船の文化の発展につながると思うからです。
私が描いた最高の感動の瞬間・・・
それが数多くの人々の心の中に残っている以上
もう私はやるべきことはやったのです。

だから引退しても悔いはないのです。

バルーンから離れて三か月余り

おはようございます。

すっかり冬になってしまいました。

最近、とあるブライダル業者と話をした際、このような話を耳にしました。

「バルーンリリースばかり見る」

「バルーン電報は相変わらず多い」

やはり、スパークバルーンなどのバルーン演出が減った模様でした。

今年の秋、ヘリウムガスはやはり一部で払底があったものの、心配されたほどの供給不足にまでは至りませんでした。しかし価格は高止まり、結果バルーンリリースの価格自体が高騰したものの、人気が底堅いため目立って減る、ということはなかったようです。

逆に、

バルーン演出の希少価値が上がったのではないか

と私は見ました。

つまるところ、高くても出るときは出るが、

ビジネスとして成り立つだけの需要がない

のです。

私はこの需要を開拓するために、これまでやってきたのです。

結果は、自らの身をボロボロにしてしまいました。

バルーンギフトにしても、流れが大きく変化しています。

ヘリウムガスを使うタイプのバルーンギフトが減り、アレンジメントタイプのバルーンギフトが増えています。

そしてここ数年顕著だった

他のものとの組み合わせ

が今年はより一層顕著になっています。

具体的には

おむつケーキ

ラッピング

との融合です。

フラワーアレンジ

との融合も目立ちました。

私の印象としては

ここ数年目立ったバルーン業界の流れの変化がより顕著になった

というものです。

その結果

特定の分野に集中させるのはかえって経営的にも得策ではない

し、

一人でバルーンビジネスを展開することに対しての限界

に直面してしまいました。

昨年私はうつ病に倒れ、その根底に発達障害があるということがわかりました。その背景には家庭環境や先祖代々続く「イエ」の流れというものがありました。

今年の秋、私はバルーン業界から離れて、改めてバルーンビジネスとはいったいなんだったのか、というものを客観的に見つめました。

そして、いずれ機会があれば、

風船というものはなぜ人々を幸せにし、感動させるのか

ということを改めて勉強しなおしたい

と思うようになりました。

もう私は第一線でバルーンビジネスに携わることはまずありません。

一方私はこうも思います

道なき道を切り開くためにはがむしゃらさも必要

しかしそこに道ができ、その道をどんどん後輩たちが通っていくようになったとき

身を引くことも必要なのではないか

そしてそのような状況に置かれた時

自分が切り開いた道を発展させるためには

何ができるのかを考えなければならない

そのため、私は今、リハビリと再就職活動に取り組んでいます。

あともう一つだけ言わせていただきますが

バルーンビジネスと親の介護

私は両立は難しい、と考えています。

自分のペースで仕事ができるから、一見両立できる、と思いがちです。

しかし私はそうは思いません。

親の介護は重労働であり、一方で国の財政が厳しいこともあり、自民党政権は

「家族の介護は家族でするのが基本」

という路線をとっています。

今の総理が言う「美しい国」とは、かつての「イエ」を基本とした古き良き時代の日本に根差した国づくりを目指す、ということです。

私はこの考えに賛成であり、それ以上に父親がこの考えなのです…が、どう見ても母親は「精神障碍者」で、このままでは間違いなく介護が必要になります。

そこまで見据えると、こうなるのも仕方ありません。

風船の仕事からいつ身を引くの

今でしょ!

東日本大震災から三年近くたち

時代は激変してしまいました…

時代が変わったら、生き方も変わるのは当然のことです。

時代が変わることによって、不要になったら、職業再訓練も必要なのです。

10月13日、日曜日、大安

こんばんは。

今日は見出しの通り、三連休の中日、しかも大安。

こうなると結婚式ラッシュになるのは言うまでもありません。

しかし結婚式で風船の使用率は下がる一方…バルーン電報などは需要が伸びる一方ですが。

かくいう私は…

多数の問い合わせを断る羽目に。

しかし、今の自分の現状を考えると

やむを得ない…

というか、もう引退した身。

やる気は皆無です。

というわけで、今日は傍観者として、バルーン演出を見ました…が

傍観者のはずの私がドキドキしていました…

と同時に、

私がやっていたことはいかにすごいことだったのか

痛感しました…

数十メートル先から私はバルーン演出を見ていたのですが

会場から聞こえる歓声がすごかった…

演出を手掛ける当事者としてみては、ものすごい緊張感なのは間違いありません。

そして成功したときの歓声と言ったら…

どれだけすごいことを私はしていたのか

客観的に見て

改めて痛感させられました…

正直言います

私はこれまで自分のしてきた仕事がすごいことだとは

全く思っていませんでした

 

むしろ成功させて当たり前

少しでも失敗したら悔しい…

だから

返還欠場

という、客観的に見れば厳しい基準を自分に課してしまっていたのかもしれません。

そして私は

どこにもない感動を自らの手で作り上げること

を目指していました

自らの目指していたところは

かなり高いところにあったのかもしれない

ということを客観的に見て痛感しました。

風船から離れて1か月余り。

風船の世界の中にどっぷりつかっていると、

自分のやってきていること以上にもっと上ばかり目が向いて

ゴールのない競争を続けていたような気がしないでもありません

離れてみてようやく

自分のやってきたことのすごさを

痛感しているのです

その一方でほかの日に仕事がない…

つまるところ、市場が小さくなっているのです。

引退はやむを得なかったといわざるを得ない…かも

今日一日を通して実感したのは

悔しいし申し訳ない、でも仕方がない

そしてこれまでやってきたことと引退を決断したことに

悔いはない

ということ

HI3G0009

wedding12cc

ピーク時にあった実話

こんにちは。

季節の変わり目で、風邪をひきそうです…

さて、今日は過去数年前の10月(11月?)のとある大安の土曜日にあった、今となっては

信じられない

ような実話です…

この週はインターネットでバルーンサービスやスパークバルーンを宅配しており、全国で合わせると1日で12組もの新郎新婦様の門出を彩った記憶があります…その週末は2日で18組(14組現場、4組宅配)手がけ、アルバイトに任せた1組を除いてすべて1人で全部やった記憶があります…

私の記憶が定かならば、このようなスケジュールだったような…

午前2時…起床

洗面を簡単に済ませ、2時10分に約70キロ離れたとあるホテルへ。

3時10分に到着。

バルーンリリース100個とスパークバルーン(直径約75センチに40個入り)1個。

4時30分に完成し、ホテルの倉庫に納品。

5時30分に帰宅。

すぐにバルーンリリース100個を膨らませる。

2回に分けて20キロ離れたガーデンウェディング式場に持っていく。

7時45分に帰宅。

すぐに荷物を入れ替えて今度は50キロ離れたハウスウェディング式場へ。

8時35分到着。

バルーンリリース80個。(10時挙式、9時20分に完成)

卓上バルーンサービス14個。(中に小さなハート6個入り)

9時50分納品完了。

25分かけて別の結婚式場へ。

10時30分(使用時間14時)、11時30分、12時30分、14時、あと夜に1組ありました。終わったのは夜21時でした。

合計5組もスパークバルーンシャワーを手掛けました。

DSC00871cDSC00875Dsc00880l

これを5組です。

この間にアルバイトに任せたバルーンリリース90個1組が先ほどのハウスウェディング会場で16:時30分にありました。その様子も見に行った記憶があります。

私1人で合計9組、アルバイトに任せた1組も合わせると合計10組手がけたことになります。

1日で使った風船の数、約1150個(うちバイト90個)…その週は合計で約2000個もの風船を膨らませた、ということになります。

帰宅は夜10時ぐらいになり、しかもこの日は大安の土曜日でした…10月だったか11月だったか覚えていませんが、このようなピークが年に少なくとも最低1回はありました…

ちなみにこの翌日の日曜日は4組、ハウスウェディングでのバルーンリリースが2組と、結婚式場のスパークバルーンシャワーが2組、普段のペースでした。もちろん1人でこなしました。

次の月曜日は疲れ果てて、温泉でのんびり休みました…

バイトにもっと任せるべき、という意見もあるでしょう。

しかし私は人件費を削減しなければならないという、経営者の役目もあるのです…

しかもこの日に1日5件あった結婚式場での演出、できる人は限られており、確かその日はもう1人できる方が他の現場に入っていた記憶が…(つまるところ広島周辺でこの演出ができるのは私とその方しかいなかった)

このような日々が何年も続くと…人間、いつかは自分のキャパシティをオーバーし、壊れてしまいます…

この日とは別に、このようなこともありました…

しかしでどうしてこのような無茶ができたのか…

若かったのと(当時30代中盤)、

やはりそれだけ風船が好きだったからでしょう…

DSCF0946

今となっては懐かしい…

くどいようですが…私を越えてほしい

おはようございます。

雨が降り続いています。

HI3G01262013年8月30日朝

DSCF12532013年5月5日夕方

HI3G00452012年11月18日昼

撮影位置はほとんど変わりません。

どこかは推理していただければ、と思います。

九州のどこか、とだけ書いておきます。

私は絶景を見て、感性を養ってきました。

九州に限らず西日本についてはありとあらゆるところの絶景を見てきました。

DSCF1306 spark054-8_edited-1
spark052-9_edited-1
dropandfry041c dropandfly043c

 

 

spark013-1 spark013-2 spark013-4 spark050-0_edited-1 spark050-4_edited-1

私が追いかけて、追い求めてきたもの

それはいつまでも心に残る感動の瞬間でした…

ヘリウムガスが不足し、思うように自分の思い描いた最高の瞬間がつくりあげられないという状況になり、風船、バルーンの位置づけは大きく変わりました。

今バルーン業界は

ツイストバルーン

ギフト・アレンジメント(フラワーアレンジに限りなく近づき、融合の方向に向かっている)

夜の街のデコレーション

ホームパーティー

といった分野が主流になっており、この分野での需要は引き続き伸びています。

完全に衰退の方向に向かっているのが

イベント

ブライダル

です。

この分野は小さくなるパイを奪い合う状態になっていて、競争は激化する一方です。

体力勝負の消耗戦になりつつあります。

このような状況では

自分のやりたいことはもはやできない

と判断、両親の病状もあって引退を決断したのです。

自ら作り上げる瞬間が

いつまでもたくさんの人の心の中に残る…

そういう作品を本当は

いつまでも作り続けたかったのです

しかし時代がそれを許しませんでした。

このブログについては当面廃止せず、引き続き時々書き込む、という形にしていきたい、と思います。

この秋のブライダルシーズン、どのように推移するか注目しています。
私の創りあげたものを越えたものが出るかもしれませんし、私はそれを期待しています。

もし仮に年内に私の創りあげたものを超える演出が出なかったとしたら、私の引退の決断は間違っていなかった、ということになります。なぜならそれは

ニーズがない

ということだからです。

ホームページもそのままにしておきます。

作品集はどなたでもダウンロードできるようにしておきます。

なぜなら

私が創ってきたものを越えてほしい

からです。

もちろん私の作品をまねしても大いに結構です。

私は16年間一貫して

類似作品の制作を認めてきました

バルーン業界の発展のためには

どんどん真似していただきたいし

私が創ってきたものを越えてほしいのです。

最後は自分らしく

こんばんは。二次会に参加して、最終電車で帰ってきました。

最後は自分らしい作品で…幕引きとなりました。
今までやってきた作品を組み合わせ、そして新たな挑戦に挑み…
自分の中ではイメージ通りにできなかった…が結果は最高のものとなった。
まさに私のバルーンアーティスト人生を象徴する作品となった。
本当に最後は自分らしい作品で終えることができました。
悔いは…
ない、と言ったらうそになります。
でも、
私は満足し、納得しています。
やれるだけのことをやったのですから。
DSCF1306 spark054-8_edited-1

恥ずかしい…でも今だからアップする

こんにちは。
明日、明後日、そして日曜日の朝(昼前)まで雨のようです…
日曜日は昼から午後なので、そこは大丈夫なような感じがしますが…高知と九州中部が悪い予報。
今日はここ数日の猛暑でついに夏バテしてしまいました…
さて、今だからアップできる動画
YAPPONさんの動画を拝借いたしました。

これ、司会者さんは「大成功間違いなし」とおっしゃっておりますが…実は
失敗
です…
そもそも成功していたら、オフィシャル動画集レコード入りです。
失敗すると…
とにかくすぐに謝る
そしてペナルティーが科される
ギャラ減額は当たり前
場合によってはギャラ没収になることも…(これを「返還欠場」という)
しかしもうこのように失敗しても目の前が真っ暗になるような仕事は…
もうしなくていい
その代り…
成功したときの
全身に稲妻が走るほどの爽快感
を味わうことももうないが…

風船の数年後

おはようございます。

バルーン業界の将来、三年後、五年後、十年後…いったいどうなっているのだろうか。

未来のことなど本当にわからない。

ただ、歴史を振り返ってみれば何か見えてくるものがあるに違いない。

1983年、東京ディズニーランドオープン。
1984年、当時日本で最大のバルーンリリースが行われた。30万個以上だったという。とあるラーメンの宣伝で行われたという。
1986年、東京南麻布、仙台坂下に日本初のバルーンショップ「タキシードベア」がオープン。この店は西麻布に拡張移転し現存する。
1988年、東京ディズニーランド5周年で大規模なバルーンリリース

このころはバブル経済絶頂期、とにかく式典といえば大規模なバルーンリリースが当たり前の時代だった。
1991年ごろ、「ウミガメショック」発生。バルーンリリースが急速に減る。
1994年、大阪梅田に西日本初のバルーンショップ「ウィンズバルーン」オープン。現在はバルーンスクールを主体に活動している。
1994年、広島アジア大会でエコ風船の大量リリース。
1995年、エミリーズバルーンアートビジネススクール始まる。
1996年4月、私もそのエミリーズバルーンアートビジネススクールに参加。
1997年1月、JBAN Conventionの第1回開催。(私も参加)
1997年?月、テレビチャンピョンでバルーンアート選手権開催

このころは日本における本格的バルーンビジネスの勃興期だったに違いない。
このころから今日も活躍する世界的なバルーンアーティストが出てくるようになる。

balart1501998年ごろの作品

2000年ごろになると、日本におけるバルーンアートは成長期に入る。

SN250067

2004年のウェディングメインテーブル


DSC01389

2004年のイベント会場デコレーション
このころ、私は演出も装飾も幅広く手掛けていた。
大口取引先も増え、たくさんの仕事をいただき、数多くの風船を膨らませていた。
これらの作品はその一例である。

ツイスターズという、ひねる風船を専門にした大会の第1回が行われたのは2004年。
このころから趣味で風船をひねる方が増え、バルーンアートが趣味として一般化するようになる。

2005年、仕事が増えすぎ、私は一時うつ状態になった。
悩んだ末、バルーン演出に経営資源を集中させる方策に出た。
これで私は回復した。

Dsc003502006年1月
yubarigienballoon52007年1月
DSC02653 2008年10月
私はとにかくたくさんの風船に生命を吹き込んだ
いつまでも心に残る最高の瞬間を数多くつくりあげた

このころからバルーンドレスが流行り始める
ツイスターズは2007年新潟、2008年には地元広島で開催された。
バルーンアートはもはや一般の趣味として定着し、バルーンビジネスは成熟期を迎えた。

この時期はバルーン業界全体にとっても私にとっても、花よ蝶よの時代だったのかもしれない。
その流れが2011年3月11日を境に変化を始める。
東日本大震災

まず変化が起きたのがブライダル業界。
派手な演出が減る傾向に。絆を重んじたアットホームな結婚式が増えていった。
そして徐々にヘリウムガスの需給がタイトになり、2012年11月には払底を起こしてしまう…

ヘリウムガスの需給は一時期の払底を脱したが、まだまだ不足している。
東京ディズニーリゾートでも2012年11月20日を最後にバルーンの販売が行われていない。
明らかに減ったのが結婚式でのバルーンリリース。

一方では今年に入り、100円ショップでヘリウムガス入りバルーンが販売されている。

私は何度も言っているように、
ただ風船を膨らませるだけの人はもはやいらない
厳しい時代がやってきた、と痛感している。

かくいう私は長年の無理がたたり、鬱を発症。その後一時は復帰したものの、諸情勢がどんどん悪化、とても続けられない、と判断し、引退を決断した。

この流れを通して、私は予想するのは、次の通り。

バルーンのすそ野はどんどん広がる。趣味としてバルーンをする人が老若男女増える

私がやってきたこと

おはようございます。

先日、最後の出張に行ってきました。

あとは地元広島での仕事だけです…あと宅配も。

正直言います。

私は本当にこの仕事を心から愛していました。

自分の好きなことをして、人を幸せにできる…

そして自分もお客様もハッピーになる…

私がしてきたことは

ただ風船を膨らませることではなく

風船に生命を吹き込むことでした。

そしていつまでも、時によっては生涯心に残る感動をもたらすのです。

そのために私はひたすら挑戦を続けました。

一体いくつの風船に私は生命を吹き込んできたのでしょうか…

それだけではありません。

全く道のないところに道を作るようなことをしてきたのです。

道なきところに道を作って、気が付けばそこにはたくさんの後輩たちが歩んでいました。

私は大したことをしたつもりは全くありません。

気が付けばそこに大きなものがあったのでした。

その私は、もう限界を悟りました。

バルーン演出の世界、正直言ってある意味職人芸の世界です。

当日の天気・気温・湿度、会場内の構造などによって演出内容や会場動線など変わってきます。

10年以上の間に何千ものバルーン演出をやってきましたが、一つとて同じものはありません。

それら一つ一つがすべて手作りなのです。

体力的にも精神的にももう限界です。

はっきり言います。

今やめても悔いが残らないから

私は引退を決断したのです。

私はやり残したことは正直言ってありません。

もっとやりたいところがあったのは正直言ってあります。

しかしこれ以上やろうとしても、自分の力ではどうにもならないところまで来てしまいました。

世の中はどんどん変化します。

結婚式もイベントの在り方もどんどん変化します。

今や3年ひと昔の時代です。

時代が再び求めるようになれば、復活するかもしれません。

でも一つだけ確かなのは

私はもう限界

です。

spark052-9_edited-1